高校/政治
1642
ピューリタン革命が起こる
オリバー・クロムウェル
語呂
覚え方
一群れ寄付(1642)ピューリタン革命
いむよふ(1642)ピューリタン革命
1642年、イギリスで国王チャールズ1世と議会が武力衝突し、内戦(ピューリタン革命)が勃発しました。議会派を率いたオリバー・クロムウェルは「鉄騎隊」と呼ばれる精強な騎兵隊を組織し、国王軍を破りました。1649年にチャールズ1世は処刑され、イギリス史上初の共和政(コモンウェルス)が樹立されます。ただしクロムウェル自身も「護国卿」として独裁的な統治を行い、彼の死後は王政が復古(1660年)します。この革命は、国王の権力を制限し議会が政治の中心となる流れを生み出し、1688年の名誉革命へとつながる重要な転換点でした。
この記事のポイント
- 1642年、チャールズ1世と議会の対立が内戦に発展(ピューリタン革命の始まり)
- 議会派のクロムウェルが「鉄騎隊」を率いて国王軍に勝利
- 1649年、チャールズ1世が処刑され、共和政(コモンウェルス)が成立
- クロムウェルは護国卿として独裁的に統治したが、1658年に死去
- 1660年に王政が復古し、その後1688年の名誉革命へとつながった
ここが面白い国王を「裁判にかけて死刑にする」という前代未聞の出来事が、17世紀のイギリスで起きた。チャールズ1世の処刑は、王の権力が「神から与えられた絶対のもの」という考えを根底から揺るがした。
ピューリタン革命は突然起きたわけではありません。17世紀イギリスの政治・宗教・財政をめぐる長年の緊張が臨界点に達した結果です。その背景を見てみましょう。
王権神授説と議会の対立
チャールズ1世(在位1625〜1649年)は「王権は神から授かったものであり、議会や法律より上位にある」という王権神授説を強く信じていました。現代でいうなら「社長の命令は株主や取締役会より絶対だ」と主張するようなもので、議会側はこれを認めませんでした。チャールズ1世は1629年に議会を解散し、11年間にわたって議会を開かずに統治する「専制政治」を行いました。
課税問題と「権利の請願」
議会の承認なしに税を徴収することはイギリスの慣習に反していました。1628年に議会はチャールズ1世に「権利の請願」を提出し、議会の承認なき課税の禁止などを求めましたが、国王はこれを形式的に認めながら実態は無視し続けました。財政が逼迫したチャールズ1世は、船舶税(シップマネー)を海岸地域だけでなく内陸部にも課すなど強引な徴税を繰り返しました。
宗教対立:ピューリタンと国教会
ピューリタン(清教徒)とは、イギリス国教会(英国国教会)の中でもカルヴァン派の影響を受け、より徹底的な「聖書に基づく信仰の純化」を求めた人々です。チャールズ1世の宗教政策はカトリックに近い儀式を重視するもので、ピューリタンや長老派(スコットランド)との摩擦を生みました。1637年のスコットランドへの祈祷書強制が大反乱を引き起こし、チャールズ1世は鎮圧のための軍費を得るために議会を召集せざるを得なくなりました。
「長期議会」の開会と対立の激化
1640年に召集された議会(長期議会)は、チャールズ1世に対して次々と改革を要求しました。議会は国王の側近を弾劾し、「議会の承認なしには議会を解散できない」とする法律を通すなど、国王の権限を大幅に制限しようとしました。チャールズ1世は1642年1月、議会に乗り込んで議員5名を逮捕しようとして失敗し、これが内戦勃発の直接のきっかけとなりました。
内戦の勃発(1642年)
≒ 政府と議会が武力で正面衝突した政治危機1642年8月、チャールズ1世がノッティンガムで王旗を掲げ、議会に宣戦布告して内戦が始まった。国王派(騎士党)と議会派(円頭党)が全国各地で衝突した。
クロムウェルの鉄騎隊と議会派の勝利
≒ 精強な新型軍が旧来の軍を圧倒した戦場の革新オリバー・クロムウェルが組織した「鉄騎隊」は規律と信仰心を備えた精強な騎兵隊で、1645年のネーズビーの戦いで国王軍に決定的な勝利を収めた。チャールズ1世はスコットランドに逃れたが、スコットランドが議会に引き渡した。
チャールズ1世の処刑と共和政の樹立(1649年)
≒ 企業の最高権力者を社員の代表が裁判で解任・排除するような前例のない事態1649年1月、チャールズ1世は「国民に対する反逆者・暴君・殺人者」として裁判にかけられ、処刑された。イギリス史上初の共和政(コモンウェルス)が成立した。
1625即位チャールズ1世がイングランド王に即位。議会との対立が始まる。
1628権利の請願議会が「権利の請願」を提出。議会の承認なき課税禁止などを求めるが、国王は実態を無視した。
1629議会解散チャールズ1世が議会を解散し、以後11年間にわたって議会なしで統治(専制政治)。
1640長期議会スコットランド反乱への対応で軍費が必要となり、チャールズ1世は議会を召集(長期議会の開会)。
1642内戦勃発チャールズ1世が議員逮捕未遂後に王旗を掲げ、国王派と議会派の内戦が勃発(ピューリタン革命の始まり)。
1645ネーズビーの戦いクロムウェルの鉄騎隊が国王軍をネーズビーの戦いで撃破。議会派が内戦の主導権を握る。
1649チャールズ1世処刑・共和政成立チャールズ1世が処刑され、イングランド共和政(コモンウェルス)が成立。
1653護国卿就任クロムウェルが議会を解散し、「護国卿」として実質的な独裁統治を開始。
1658クロムウェル死去クロムウェルが死去。息子リチャードが護国卿を継ぐが、統治能力を発揮できず短期で辞任。
1660王政復古チャールズ2世が即位し、王政が復古。ピューリタン革命の共和政が終わる。
1688名誉革命ジェームズ2世が追放され、ウィリアム3世が即位。議会主権が確立される(ピューリタン革命とは別の出来事)。
◎「国王であっても議会や法律に従わなければならない」という考えが実力をもって示され、イギリスにおける議会政治の発展に道を開いた。
△クロムウェル自身が護国卿として独裁的統治を行い、アイルランドへの苛酷な軍事征服(1649〜1650年)や宗教的弾圧も行ったため、革命の理念と現実には大きな乖離があった。
△クロムウェルの死後に王政が復古したことで、革命の成果は一時的に後退した。議会主権が法的に確立されるのは1688年の名誉革命を待つことになる。
オリバー・クロムウェル
議会派の軍事指導者・護国卿ケンブリッジシャーの地方ジェントリ出身。「鉄騎隊」を率いて国王軍を破り、共和政を樹立。護国卿として独裁的統治を行い、1658年に死去した。
チャールズ1世
イングランド王(在位1625〜1649年)王権神授説を信奉し、議会を無視した専制政治を行った。内戦に敗れ、1649年に処刑された。ヨーロッパ史上で君主が自国の法廷により処刑された稀な事例である。
トマス・フェアファックス
議会派軍最高司令官ニューモデル軍の総司令官としてネーズビーの戦いなどで国王軍を撃破した。のちにクロムウェルの方針に反発し引退した。
チャールズ2世
イングランド王(在位1660〜1685年)チャールズ1世の息子。1660年の王政復古により即位した。議会との協調を図りつつも、カトリックへの傾倒が議会との新たな摩擦を生んだ。
- 王権神授説
- 「王の権力は神から直接与えられたものであり、議会や民衆は王に逆らえない」という考え方。現代でいえば「トップの権限は絶対で誰も文句をいえない」という考えに近い。チャールズ1世が強く信奉し、議会との対立の根本原因となった。
- ピューリタン(清教徒)
- イギリス国教会の中でカルヴァン主義の影響を受け、より厳格な信仰生活と教会の「純化」を求めた人々。議会派の中心的な支持勢力で、革命の名称「ピューリタン革命」はここに由来する。
- 鉄騎隊(アイアンサイズ)
- クロムウェルが組織した議会派の精鋭騎兵隊。規律・信仰心・訓練で国王軍の騎兵を圧倒した。のちにニューモデル軍の核となり、内戦の勝敗を決した。
- コモンウェルス(イングランド共和政)
- チャールズ1世処刑後の1649年から1660年まで続いたイングランドの共和政体。クロムウェルが護国卿として実権を握り、その死後に崩壊した。
- 護国卿(プロテクター)
- クロムウェルが1653年に就任した称号。実質的な独裁者として国を統治した。王位には就かなかったが、権力は国王に匹敵するものだった。
- 権利の請願(1628年)
- 議会がチャールズ1世に提出した文書。議会の承認なき課税の禁止・不法な逮捕・軍の民間住宅への強制宿泊禁止などを求めた。のちの権利章典(1689年)の先駆けとなる。
- 長期議会
- 1640年に召集され、1653年にクロムウェルによって解散させられるまで続いた議会。ピューリタン革命の中心的な政治舞台となった。
1クロムウェルの遺体は王政復古後に「処刑」された
クロムウェルは1658年に死去し、ウェストミンスター寺院に手厚く葬られた。しかし1660年の王政復古後、チャールズ1世処刑への報復として遺体が掘り起こされ、「象徴的な死刑執行」として首が切り落とされた。切り落とされた頭部は長年にわたり各地を転々とし、最終的には1960年にケンブリッジのシドニー・サセックス・カレッジに埋葬されたとされる。
2「クリスマス禁止」を命じたのはクロムウェル
ピューリタンの信仰に基づき、クロムウェルはクリスマスの祝祭を「聖書にない不敬な習慣」として事実上禁止した。劇場や酒場も閉鎖し、日曜日の娯楽を禁じるなど、イギリス社会に厳格な宗教的規律を強いた。王政復古後、チャールズ2世のもとでクリスマスや娯楽は復活した。
3クロムウェルは死後に「王」と呼ばれた
クロムウェルは生前「護国卿」として王位を辞退した(議会から王位を勧められたが断った)。しかし実態は世襲を試みており、息子リチャードを後継者に指名した。リチャードは「ターニップ・リチャード(カブのリチャード)」と呼ばれるほど統治能力がなく、8か月で辞任している。
4ピューリタン革命は「清教徒革命」とも呼ばれる
「ピューリタン」は英語で「清める人」を意味するPuritanの音訳で、「清教徒」はその意訳。日本の教科書では「ピューリタン革命」と「清教徒革命」の両方の表記が使われることがある。どちらも同じ出来事を指している。

ここが出る博士のワンポイント
開始年は1642年。語呂は「一群れ寄付(1642)ピューリタン革命」。
議会派のリーダーはオリバー・クロムウェル。国王派(王党派)のリーダーはチャールズ1世。
チャールズ1世が処刑されたのは1649年。1642年の内戦勃発と混同しないこと。
クロムウェルの称号は「護国卿」。「王」ではない点に注意。
ピューリタン革命(1642年〜)と名誉革命(1688年)は別の出来事。混同しないこと。
クロムウェルの死後に王政が復古(1660年)し、そのさらに後に名誉革命(1688年)が起きる、という順序を押さえる。
語呂クイズ
「一群れ寄付(1642)ピューリタン革命」= ピューリタン革命が起こるは西暦何年?
- Q. ピューリタン革命はなぜ「ピューリタン」革命というのですか?
- A. 議会派の中心的な支持勢力がピューリタン(清教徒)だったからです。ピューリタンはイギリス国教会のより徹底した改革を求める人々で、チャールズ1世のカトリックに近い宗教政策と激しく対立しました。
- Q. クロムウェルは王様になったのですか?
- A. なっていません。クロムウェルは「護国卿」という称号を名乗りました。議会から王位を勧められましたが、公式には辞退しています。ただし実態は独裁的な統治で、権力は国王同然でした。
- Q. ピューリタン革命と名誉革命はどう違うのですか?
- A. 別の出来事です。ピューリタン革命は1642年に始まる内戦で、チャールズ1世の処刑・共和政樹立・クロムウェルの統治が含まれます。名誉革命は1688年に起きた別の政変で、ジェームズ2世が追放されウィリアム3世が即位した出来事です。ピューリタン革命から約40年後のことです。
- Q. チャールズ1世はなぜ処刑されたのですか?
- A. 議会派がチャールズ1世を「国民に対する反逆者・暴君・殺人者」として裁判にかけ、死刑判決を下したからです。国王が自国の裁判所で処刑されるのは当時のヨーロッパでも極めて異例な出来事でした。
- Q. 革命後になぜ王政が復活したのですか?
- A. クロムウェルの独裁的統治や厳格なピューリタン的規制(クリスマス禁止・劇場閉鎖など)が民衆の不満を招いたからです。クロムウェルの死後、後継者リチャードが統治能力を発揮できず、議会も混乱したため、チャールズ1世の息子チャールズ2世を迎えて王政を復古させることになりました。
- Q. 鉄騎隊とは何ですか?
- A. クロムウェルが組織した議会派の精鋭騎兵部隊です。厳格な規律・宗教的信仰心・徹底した訓練を特徴とし、国王軍の騎兵を圧倒しました。この部隊がニューモデル軍の核となり、内戦の勝敗を決定づけました。
1642年に始まったピューリタン革命は、「王権神授説による専制政治への議会の反発」という構図で起きた内戦です。クロムウェルが議会派を率いて国王軍を破り、1649年にチャールズ1世を処刑して共和政を樹立しました。しかしクロムウェル自身も護国卿として独裁的統治を行い、その死後に王政が復古(1660年)します。議会主権が法的に確立されるのは1688年の名誉革命まで待つことになります。試験では、「ピューリタン革命(1642年)と名誉革命(1688年)は別の出来事」という点と、クロムウェルの称号が「護国卿」である点をしっかり押さえましょう。語呂は「一群れ寄付(1642)ピューリタン革命」です。
編集メモ(ファクト)
ピューリタン革命の開始年は内戦が始まった1642年とした。チャールズ1世の処刑(1649年)や共和政成立と混同しないよう本文・exam_pointsで明示した。
クロムウェルのアイルランド遠征(1649〜1650年)における虐殺については、result の caution として事実を記述したが、詳細な数字の記載は史料によって幅があるため省いた。
「清教徒革命」という表記も日本の教科書で使われることがあるが、trivia で言及するにとどめ、本文での表記は「ピューリタン革命」に統一した。
名誉革命(1688年)との混同を防ぐため、timeline・faq・conclusion・exam_pointsで繰り返し両者の区別を明示した。