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1628

イギリスで権利の請願が提出される

エドワード=コーク(イングランド法学者・議員)
語呂
覚え方
色には(1628)権利の請願
いろには(1628)権利の請願

1628年、イングランド議会は国王チャールズ1世に対して「権利の請願(Petition of Right)」と呼ばれる文書を提出し、国王はいったんこれを承認しました。中心的な起草者は高名な法学者エドワード=コーク(クック)です。主な要求は、(1)議会の同意なき課税の禁止、(2)法によらない不当な逮捕・投獄の禁止、(3)民家への軍隊の強制宿営の禁止、(4)戒厳令の乱用禁止の四点で、1215年のマグナ・カルタの精神を改めて確認するものでした。しかしチャールズ1世は翌1629年に議会を強制解散し、以後1640年まで議会を開かない「11年間の専制」を敷きました。この専制こそが、のちのピューリタン革命(清教徒革命・1642年〜)の直接的な火種となり、権利の請願はイングランド立憲政治の歴史において欠かせない里程標として評価されています。

この記事のポイント

  • 1628年、法学者エドワード=コークが中心となり起草し、議会がチャールズ1世に権利の請願を提出
  • 主な要求は①議会の同意なき課税禁止、②不当な逮捕・投獄の禁止、③軍隊の強制宿営禁止、④戒厳令の乱用禁止の四点
  • マグナ・カルタ(1215年)の精神を引き継ぎ、王権に対する法の支配を改めて文書で確認した
  • チャールズ1世は一度承認したものの、翌1629年に議会を解散し、11年間の専制政治を開始
  • この専制が積み重なりピューリタン革命(1642年〜)の直接的な原因となり、のちの権利章典(1689年)へとつながった
ここが面白い

「王様であっても、法を破って人を捕まえることはできない」――この原則をめぐり、イングランド議会と国王が激突した1628年。提出された文書は、マグナ・カルタから400年の歴史を受け継ぐ、近代立憲主義への重要な一歩だった。

ここに至るまでの流れ
背景

権利の請願は突然生まれたものではありません。ステュアート朝の成立以来続いていた国王と議会の対立、そしてチャールズ1世の即位後に加速した専制的な財政政策と違法な兵役への反発が積み重なって生まれた文書です。その背景を順に整理してみましょう。

ステュアート朝と王権神授説

1603年にエリザベス1世が子を残さずに死去し、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位しました。ステュアート朝の始まりです。ジェームズ1世は「王権は神から直接授けられたものであり、議会よりも上位にある」とする王権神授説を強く主張し、議会との摩擦が絶えませんでした。

チャールズ1世の即位と財政問題

1625年に即位したチャールズ1世も父王の政策を引き継ぎ、フランスやスペインとの戦争を続けました。しかし戦費が嵩むなか議会は補助金の承認を渋り、王は議会の同意を得ずに臣民から「強制公債」を徴収しました。支払いを拒んだ者を令状なしに投獄する事件も相次ぎ、議会の怒りを買いました。

エドワード=コークと法の支配

権利の請願の起草を主導したのは、イングランドきっての法学者エドワード=コーク(1552〜1634年)です。コークはかつて王の判事としてコモン・ロー(慣習法)の優位を主張し、ジェームズ1世とも激しく対立した人物でした。マグナ・カルタを「イングランド自由の礎石」と位置づけ、その精神を議会での立法活動に反映しようとしました。

権利の請願の主な内容

1628年に議会が提出した権利の請願の核心は四点です。第一に、議会の同意なしに課税・強制公債を徴収しないこと。第二に、法によらずに自由人を逮捕・投獄しないこと(マグナ・カルタ第39条の確認)。第三に、民家への軍隊の強制宿営を禁止すること。第四に、平時に軍法(戒厳令)を民間に適用しないこと。チャールズ1世は内容の解釈余地を残す形でいったん承認しましたが、翌年には議会を解散しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

議会の同意なき課税の禁止

≒ 「増税は議会で決める」という原則の再確認

王が議会を通さず強制的に臣民から資金を徴収することを明文で禁じた。マグナ・カルタ以来の「課税には同意が必要」という原則を改めて確認するものであり、後の議会主権の考え方につながる。

法によらない逮捕・投獄の禁止

≒ 令状なし逮捕の禁止と適正手続きの保障

コモン・ローおよびマグナ・カルタ第39条を根拠として、国王といえども法的な手続きなしに人を拘束できないと定めた。のちの人身保護法(1679年)に直接つながる考え方である。

軍隊の民家への強制宿営の禁止

≒ 私有財産・住居の安全の保障

戦時の慣行として軍隊が民家に無断で宿営することを禁じた。臣民の財産権と生活の安全を国家権力から守るという発想であり、後の権利章典にも同様の条項が盛り込まれた。

前後のできごと
年表
1215
マグナ・カルタジョン王がマグナ・カルタを承認。「王も法に従う」「不当な逮捕の禁止」など、権利の請願が引き継ぐ原則が初めて文書化される。
1603
ステュアート朝成立スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝が始まる。王権神授説を唱え議会と対立。
1625
チャールズ1世即位チャールズ1世が即位。フランス・スペインとの戦争を続けるが相次いで失敗し、財政難から議会の承認なき課税・強制公債を強行する。
1626
議会解散(1回目)議会が弾劾を進めると、チャールズ1世はこれを阻止するために議会を解散。
1627
強制公債と不当逮捕チャールズ1世が強制公債の拒否者を令状なしで投獄。「五騎士事件」として知られる違法逮捕が議会の怒りに火をつける。
1628
権利の請願提出・承認エドワード=コーク主導で起草された権利の請願を議会がチャールズ1世に提出。王は内容に含みを持たせたうえでいったん承認する。
1629
議会解散(2回目)・11年の専制開始チャールズ1世が再び議会を強制解散し、以後1640年まで議会を招集しない「11年間の専制」を敷く。
1640
長期議会召集スコットランドとの戦争(主教戦争)で費用が尽きたチャールズ1世が議会を再招集。議会との対立が一気に激化する。
1642
ピューリタン革命勃発国王派と議会派の内戦が始まる(ピューリタン革命・清教徒革命)。権利の請願で蓄積した対立が内戦として爆発した。
1649
チャールズ1世処刑議会派(クロムウェル主導)がチャールズ1世を裁判にかけ処刑。共和政が宣言される。
1679
人身保護法権利の請願で明示された不当逮捕禁止の原則を具体化した人身保護法(ハビアス・コーパス法)が制定される。
1689
権利章典名誉革命後に制定された権利章典が、権利の請願の内容をより広く発展させ、立憲君主制の基礎を確立した。
結果とその後
結果
議会による王権の制限を改めて文書で確認し、マグナ・カルタ以来の「法の支配」の原則を近世イングランドにおいて継承・強化した。権利章典(1689年)や人身保護法(1679年)への重要な橋渡しとなった。
チャールズ1世は承認に際して解釈の余地を残す表現を使い、翌年には議会を解散した。請願自体は即時の効果を持たず、むしろ専制政治の直接的な原因となって内戦(ピューリタン革命)を招いた。権利の請願は「勝利」ではなく、長い対立の中の一局面として理解する必要がある。
登場人物
人物

エドワード=コーク

法学者・下院議員(1552〜1634年)

コモン・ローの権威として知られ、「王であってもコモン・ローに従わなければならない」と主張してジェームズ1世とも対立した。権利の請願の中心的な起草者であり、マグナ・カルタを近代的な法の支配の根拠として再解釈した。

チャールズ1世

イングランド王(在位1625〜1649年)

父ジェームズ1世から王権神授説を引き継ぎ、議会を軽視した専制的な統治を行った。権利の請願をいったん承認したが翌年解散し、最終的に議会派との内戦に敗れ1649年に処刑された。

ジョン・エリオット

下院議員

権利の請願の審議において議会側の主導的な論客の一人として活躍した。チャールズ1世による議会解散後も抵抗を続け、ロンドン塔に幽閉されたのちに獄中で死去した。

バッキンガム公(ジョージ・ヴィリアーズ)

チャールズ1世の寵臣・宰相

チャールズ1世の外交・軍事政策を主導した実力者。フランス・スペインとの戦争の失敗により議会から弾劾を受け、これがチャールズ1世による議会解散の一因となった。1628年に暗殺された。

キーワード解説
用語
権利の請願
1628年にイングランド議会が国王チャールズ1世に提出した文書。課税・逮捕・宿営・戒厳令についての四つの要求からなり、マグナ・カルタの精神を引き継いで王権を法で制限しようとした。
王権神授説
国王の権力は神から直接授けられたものであり、議会や法に縛られないという考え方。ステュアート朝のジェームズ1世・チャールズ1世が主張し、議会との激しい対立の根本的な原因となった。
コモン・ロー
成文法ではなく、裁判の判例の積み重ねによって形成されてきたイングランド固有の慣習法体系。エドワード=コークはコモン・ローが王権よりも上位にあると主張した。
強制公債
議会の承認なしに国王が臣民に強制的に貸し付けさせた資金。チャールズ1世が戦費調達のために実施し、拒否した者を令状なしに投獄したことが権利の請願の直接的な契機となった。
ピューリタン革命(清教徒革命)
1642年から始まったイングランド内戦。国王派(騎士党)と議会派(円頂党)が激突し、オリバー=クロムウェルを指導者とする議会派が勝利してチャールズ1世を処刑。共和政が宣言された。
人身保護法(ハビアス・コーパス法)
1679年に制定されたイングランドの法律。「ハビアス・コーパス」はラテン語で「その身体を提出せよ」の意味。不当に拘束された人物に対して裁判所が釈放を命じる手続きを定め、権利の請願で確認された不当逮捕禁止の原則を具体化した。
もっと知りたい
豆知識

1「五騎士事件」が請願の直接の引き金

1627年、チャールズ1世による強制公債の支払いを拒んだ五人の騎士(貴族)が令状なしで投獄された。裁判所も「国王の特別命令による拘束」として釈放を認めなかったこの事件が、議会を激怒させ権利の請願の起草へと直接つながった。

2コークはかつて王に追放された判事

エドワード=コークは1616年にジェームズ1世と激しく対立し、首席判事の職を追われた経歴を持つ。その後議会に転じ、王権を法で縛ることに生涯を賭けた。権利の請願提出の6年後、1634年に82歳で死去した。

3チャールズ1世の「承認」には含みがあった

チャールズ1世は最初、議会が求める明確な承認ではなく曖昧な応答を返した。議会の強い要求を受けて改めて承認の言葉を述べたが、王は内容の解釈余地を意図的に残したとされる。結果として翌年の議会解散につながり、実効性はほとんどなかった。

4バッキンガム公の暗殺が解散を早めた

権利の請願が提出されたのと同じ1628年、チャールズ1世の絶対的な寵臣であるバッキンガム公が陸軍士官に暗殺された。国王は悲嘆に暮れながら議会との対立をさらに深め、翌1629年の解散へと突き進んだ。

5アメリカの権利章典にも影響

権利の請願で規定された民家への軍隊の強制宿営禁止は、1791年制定のアメリカ合衆国憲法修正第3条(平時における兵士の民家宿営禁止)にも受け継がれた。イングランド立憲政治の遺産がアメリカ建国の精神に直結した例の一つである。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1628年。語呂は「色には(1628)権利の請願」。
起草の中心人物はエドワード=コーク(クック)。提出先の国王はチャールズ1世。
四つの要求:①議会の同意なき課税禁止、②法によらない逮捕・投獄の禁止、③軍隊の民家への強制宿営禁止、④戒厳令の乱用禁止。
チャールズ1世はいったん承認したが翌1629年に議会を解散し、1640年まで「11年間の専制」を続けた。
流れを整理:マグナ・カルタ(1215年)→権利の請願(1628年)→ピューリタン革命(1642年〜)→人身保護法(1679年)→権利章典(1689年)。
語呂クイズ
「色には(1628)権利の請願」= イギリスで権利の請願が提出されるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 権利の請願とは何ですか?
A. 1628年にイングランド議会が国王チャールズ1世に提出した文書です。議会の同意なき課税禁止、不当な逮捕・投獄の禁止、軍隊の民家への強制宿営禁止、戒厳令の乱用禁止の四点を要求し、マグナ・カルタの精神を引き継いで王権を法で縛ることを目的としました。
Q. なぜ権利の請願は生まれたのですか?
A. チャールズ1世が議会の承認なしに強制公債を徴収し、拒否した者を令状なしで投獄するなどの専制的な行為を繰り返したためです。議会は法学者エドワード=コークを中心にこれを違法と判断し、王に改善を求める文書を提出しました。
Q. 権利の請願とマグナ・カルタはどう違いますか?
A. マグナ・カルタ(1215年)が国王と貴族の間の封建的な取り決めとして生まれたのに対し、権利の請願(1628年)は議会と国王の間の政治的な対立を背景に、マグナ・カルタの原則を改めて確認するために作られた文書です。権利の請願はより議会の権限を意識した内容を持っています。
Q. 権利の請願の後、イングランドはどうなりましたか?
A. チャールズ1世は承認後すぐに議会を解散し、1640年まで議会を開かない専制を続けました。この積み重なった不満が1642年のピューリタン革命(内戦)へと発展し、最終的にチャールズ1世は1649年に処刑されました。その後1689年の名誉革命で権利章典が制定され、立憲君主制が確立しました。
Q. エドワード=コークはどんな人物ですか?
A. 16〜17世紀のイングランドを代表する法学者・政治家です。コモン・ローの権威として「王もコモン・ローに従わなければならない」と主張し、ジェームズ1世との対立で判事の職を追われたことがあります。その後議会議員となり、権利の請願の起草を主導しました。マグナ・カルタを近代的な法の支配の根拠として再解釈したことでも知られています。
まとめ

権利の請願は、マグナ・カルタから400年の歴史を経て、王権と議会の対立が激化したイングランドで生まれた文書です。即時の成果としては翌年の議会解散という「失敗」に終わりましたが、ピューリタン革命・名誉革命を経て制定される権利章典(1689年)への道を確実に切り開きました。「色には(1628)権利の請願」の語呂とともに、起草者のエドワード=コーク・提出先のチャールズ1世・四つの要求内容・翌年の議会解散という流れを、マグナ・カルタから権利章典への大きな流れの中で押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
エドワード=コークの日本語表記は「コーク」と「クック」の両方が教科書・参考書で使われる。本文では「コーク(クック)」と併記した。
チャールズ1世による承認の表現については、最初の応答が不明瞭だったとする史料があるため、「いったん承認した」としつつ「含みがあった」点をtriviaで補足した。
「ピューリタン革命」は「清教徒革命」とも呼ばれる。日本の教科書では両方の表記が使われるため、本文では「ピューリタン革命(清教徒革命)」と併記した。
related に指定された「1642-puritan-revolution」「1689-bill-of-rights」は指定通りに記載した。これらのIDが世界史サイトに存在しない場合は削除すること。
バッキンガム公の役割については概説レベルにとどめ、詳細な政治的経緯は本文から省いた。