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高校/経済
1600

イギリス東インド会社が設立される

エリザベス1世(イングランド女王)
語呂
覚え方
色を運ぶ(1600)イギリス東インド会社
いろをはこぶ(1600)英東インド会社

1600年12月31日、イングランド女王エリザベス1世はアジア貿易の独占権を与える特許状を発行し、「イギリス東インド会社(正式名称:東インド諸島との貿易のためのロンドン商人総督・会社)」が設立されました。当初は香辛料を求めて東南アジアに向かいましたが、1623年のアンボイナ事件でオランダに敗れてモルッカ諸島から撤退。方針を転換してインドを主舞台とし、マドラス・ボンベイ・カルカッタに拠点を次々と築きました。1757年のプラッシーの戦いでフランスおよびベンガル太守の軍を破ると、会社は単なる商社から実質的な統治機関へと変質していきます。そして1858年、インド大反乱(セポイの反乱)の余波を受けて会社は解散し、インドはイギリス王室の直轄支配下に入りました。一民間企業が二世紀半をかけてアジア最大の文明圏を飲み込んでいくこの過程は、近代帝国主義の原型として今日も歴史家の研究対象であり続けています。

この記事のポイント

  • 1600年12月31日、エリザベス1世の特許状によりイギリス東インド会社が設立(オランダ東インド会社より2年早い)
  • 当初は香辛料貿易が目的だったが、1623年アンボイナ事件でオランダに敗れ東南アジアから撤退
  • インドに軸足を移し、マドラス(1639年)・ボンベイ(1668年)・カルカッタ(1690年)に拠点を確立
  • 1757年プラッシーの戦いでフランス・ベンガル太守連合軍を破り、インド支配を本格化
  • 1858年のインド大反乱後に解散、インドはイギリス王室の直轄領となり、1877年にインド帝国が成立
ここが面白い

「貿易会社」として生まれた組織が、気づけば一国まるごと支配していた――イギリス東インド会社は、資本主義と帝国主義が交差する近代史の縮図である。

ここに至るまでの流れ
背景

イギリス東インド会社の設立は、単なる貿易会社の誕生ではありませんでした。スペイン・ポルトガルによる「大航海時代の独占」を崩そうとするイングランドの国家的野心と、商人たちの利潤追求が一致したことで生まれた組織です。その背景を順を追って見ていきましょう。

大航海時代とアジア貿易の利益

15世紀末にポルトガルがアフリカ南端を回るインド航路を開拓し、スペインがアメリカ大陸に到達すると、両国はアジア・南北アメリカの貿易を事実上独占した。とりわけ胡椒・丁子・肉豆蔲などの香辛料はヨーロッパで金と同等の価値があるとさえ言われ、アジア貿易の利益は莫大なものだった。イングランドの商人たちはこの利益の分け前を求め、北回り航路や東南アジアへの直接進出を模索し始めた。

無敵艦隊撃破とイングランドの海洋台頭

1588年、スペインの無敵艦隊(アルマダ)がイングランド海軍とフランシス・ドレークら私掠船隊に敗北した。この出来事はヨーロッパの海洋覇権に大きな転換をもたらし、イングランドが大西洋・インド洋へ本格的に進出する契機となった。エリザベス1世はこの機を逃さず、アジア貿易のための組織設立を後押しした。

特許会社という仕組み

東インド会社は「特許会社(joint-stock company)」として設立された。国王から特定地域の貿易独占権を与えられた代わりに、複数の投資家が株式を購入して資本を提供し、利益を配当として受け取る仕組みである。これは現代の株式会社の原型の一つとされる。当初の払込資本は約7万2千ポンドで、約217名の商人・貴族が出資したとされている。

アンボイナ事件とインドへの転換

1623年、東南アジアのモルッカ諸島(現インドネシア)アンボイナ島で、オランダ東インド会社の役人がイギリス東インド会社の商館員ら約20名を拷問・処刑した事件(アンボイナ事件)が起きた。この事件でオランダの東南アジアにおける優位が決定的となり、イギリス東インド会社は香辛料貿易の争奪からほぼ手を引き、インドを主たる経営地域として転換することになった。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

株式会社の原型となった特許会社

≒ 複数の投資家が株式を買って資本を出し合う株式会社の仕組み

国王の独占特許状と複数商人の出資を組み合わせた特許会社形式は、現代の株式会社の先駆とされる。東インド会社は利益を株主に配当する形式を早期に採用し、大規模な海外事業を可能にした。

貿易会社から統治機関への変質

≒ 企業が国家権力と軍事力を持つという前代未聞の存在

会社は時代を経るにつれ、徴税権・裁判権・条約締結権・軍隊保有権を持つ統治機関となった。インド現地の軍(セポイ)を雇い、独自の行政機構まで整備した。貿易会社が帝国の代行機関となる過程は近代帝国主義の典型例である。

プラッシーの戦いとインド支配の確立

≒ 外国企業が一国の軍事力を打ち破って統治権を握る

1757年にイギリス東インド会社軍がフランスおよびベンガル太守シラージュ・ウッダウラの連合軍を破り、ベンガル地方の徴税権を獲得。これ以後、会社のインド支配は「貿易」から「収奪と統治」へと本質が変わった。

前後のできごと
年表
1588
無敵艦隊撃破イングランド海軍がスペインの無敵艦隊(アルマダ)を破り、大西洋・インド洋への進出機運が高まる。
1600
東インド会社設立12月31日、エリザベス1世が特許状を発行し、イギリス東インド会社が設立される。アジア貿易の独占権が与えられた。
1602
オランダ東インド会社設立オランダが東インド会社(VOC)を設立。資本規模・組織力でイギリスを凌駕し、東南アジアの香辛料貿易を支配していく。
1623
アンボイナ事件モルッカ諸島のアンボイナ島で、オランダ東インド会社がイギリス商館員らを処刑。イギリスは東南アジアからほぼ撤退し、インドへ軸足を移す。
1639
マドラス(チェンナイ)建設インド南東部のコロマンデル海岸にマドラスの拠点を確立。聖ジョージ要塞を建設し、インド南部経営の拠点とした。
1668
ボンベイ(ムンバイ)獲得ポルトガルからの婚姻持参金としてイングランド王室が獲得したボンベイ島を、王室から東インド会社が年10ポンドで借り受け、インド西海岸の拠点とした。
1690
カルカッタ(コルカタ)建設インド東部にカルカッタを建設し、ウィリアム要塞を整備。後にイギリス領インドの首都となる。
1757
プラッシーの戦いロバート・クライヴ率いるイギリス東インド会社軍が、フランスの支援を受けたベンガル太守シラージュ・ウッダウラの軍を破る。ベンガル地方の徴税権を獲得し、インド支配が本格化。
1773
規制法制定イギリス議会が東インド会社規制法(ノースのインド法)を制定。会社への国家監督を強化し、カルカッタに総督府が置かれた。初代総督にウォーレン・ヘースティングスが就任。
1857
インド大反乱(セポイの反乱)会社が雇用するインド人傭兵(セポイ)が反乱を起こし、北インド全域に拡大。翌1858年に鎮圧されたが、この事件を機に会社は解散した。
1858
東インド会社解散インド統治法が制定され、インドの統治権がイギリス東インド会社からイギリス王室に移管。会社は正式に解散した。
1877
インド帝国成立ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるインド帝国が成立し、イギリスによるインドの直轄支配が制度として完成した。
結果とその後
結果
イギリス東インド会社の活動はアジアとヨーロッパの商業ネットワークを飛躍的に拡大し、株式会社・国際貿易・植民地経営の制度的モデルを世界史に提示した。
一方でインドの産業(特に綿織物)の破壊、強制的な徴税による飢饉の発生、プラッシー後の収奪的支配など、現地住民に多大な苦難をもたらした。会社の「成功」は暴力と搾取のうえに成り立っていた面を見落とさないことが重要である。
登場人物
人物

エリザベス1世

イングランド女王(在位1558〜1603年)

1600年12月31日に東インド会社設立の特許状を発行した人物。スペイン無敵艦隊撃破後の積極的な海洋進出政策の一環として、アジア貿易独占権を会社に付与した。

ロバート・クライヴ

イギリス東インド会社軍指揮官・初代ベンガル知事

プラッシーの戦い(1757年)でベンガル太守軍を破り、会社のインド支配を確立した人物。「インドのクライヴ」として英雄視される一方、収奪的な統治への批判もある。後に帰国後自殺したとされる。

シラージュ・ウッダウラ

ベンガル太守(ナワーブ)

プラッシーの戦いでイギリス東インド会社軍に敗れたベンガルの君主。フランスの支援を受けたが、部下の裏切り(ミール・ジャーファル)もあって敗北した。

ウォーレン・ヘースティングス

初代ベンガル総督(在任1773〜1785年)

1773年の規制法によりカルカッタ総督として任命された。インド統治の近代化を推進したが、帰国後に議会で弾劾裁判にかけられた(最終的には無罪)。

キーワード解説
用語
特許会社(ジョイント・ストック・カンパニー)
国王から特定地域の貿易独占権を与えられた代わりに、複数の投資家が株式を購入して資本を提供し、利益を配当として分配する形式の会社。現代の株式会社の原型の一つ。
セポイ
イギリス東インド会社が雇用したインド人傭兵。ヒンドゥー教徒やイスラーム教徒が多く、1857年の大反乱(インド大反乱)の主役となった。
アンボイナ事件
1623年、オランダ領東インドのアンボイナ島でオランダ東インド会社が現地のイギリス商館員らを拷問・処刑した事件。これによりイギリスは東南アジア香辛料貿易からほぼ撤退した。
プラッシーの戦い
1757年、イギリス東インド会社軍とベンガル太守・フランス連合軍の間で戦われた戦闘。ロバート・クライヴが勝利し、イギリスのベンガル支配の端緒となった。
インド大反乱(セポイの反乱)
1857〜58年にイギリス東インド会社のインド人傭兵(セポイ)が起こした大規模反乱。宗教的感情への侮辱や経済的搾取への不満が背景にあった。鎮圧後に会社は解散し、インドは王室直轄となった。
もっと知りたい
豆知識

1オランダ東インド会社より2年早く設立

イギリス東インド会社は1600年設立で、よく比較されるオランダ東インド会社(VOC、1602年設立)より2年早く生まれた。しかし資本規模や組織力ではオランダが当初優位であり、東南アジアの香辛料貿易はオランダに席巻された。

2年10ポンドでボンベイ島を借りた

インド西岸のボンベイ(現ムンバイ)は、ポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザの嫁資としてイングランド王室に渡った島だった。東インド会社はこれを年10ポンドという破格の賃料で国王から借り受け、インド西部経営の要衝とした。

3会社が独自の軍隊を持っていた

最盛期のイギリス東インド会社は26万人以上のインド人傭兵(セポイ)を含む軍事力を保有しており、これはイギリス本国陸軍の兵力を大きく上回るものだった。貿易会社が国家を超える軍事力を持つという前例のない状況が生まれていた。

4プラッシーの戦いは内通で決まった

プラッシーの戦いでベンガル太守シラージュ・ウッダウラが敗れた背景には、太守軍の最高司令官ミール・ジャーファルがイギリス側と密約を結んで戦闘中に動かなかったという事情がある。クライヴの軍事的勝利の陰には外交工作が大きく機能していた。

5『国富論』刊行の年にインド法も制定された

アダム・スミスが自由市場経済の古典的著作『国富論』を刊行したのは1776年。同書はイギリス東インド会社による独占貿易を厳しく批判しており、帝国主義的独占への批判が思想的に高まっていた時代を反映している。なお会社への本格的規制が議論されたのもこの頃であった。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1600年。語呂は「色多々(1600)東インド会社」。オランダ東インド会社(1602年)より2年早い点がよく問われる。
設立の特許状を発行したのはイングランド女王エリザベス1世。
アンボイナ事件(1623年)→東南アジア撤退→インド経営へ転換、という流れを押さえる。
インドの三大拠点はマドラス・ボンベイ・カルカッタ。この3都市とその順序が問われることがある。
プラッシーの戦い(1757年)でベンガル支配確立。指揮官はロバート・クライヴ。フランスとベンガル太守が敵側。
インド大反乱(1857年)後に会社解散(1858年)→インドは王室直轄→インド帝国成立(1877年)という因果関係を整理する。
語呂クイズ
「色を運ぶ(1600)イギリス東インド会社」= イギリス東インド会社が設立されるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. イギリス東インド会社はなぜ設立されたのですか?
A. ポルトガル・スペインが独占するアジア貿易(特に香辛料)に参入するため、エリザベス1世が特許状を発行して設立しました。個々の商人では賄いきれない資本と危険を、複数の出資者が分担する株式会社の形式が採られました。
Q. なぜ東南アジアでなくインドを経営地にしたのですか?
A. 1623年のアンボイナ事件でオランダ東インド会社に敗れ、香辛料産地のモルッカ諸島(東南アジア)から事実上追い出されたためです。その後インドの綿織物・茶・藍などに商品を転換し、インドに軸足を置くようになりました。
Q. プラッシーの戦いはなぜ重要なのですか?
A. 1757年にロバート・クライヴがベンガル太守とフランスの連合軍を破ったこの戦いにより、東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得しました。これ以後、会社は単なる貿易業者から事実上の支配者へと変質し、インド植民地化が本格的に始まりました。
Q. 東インド会社はいつ・なぜ解散したのですか?
A. 1857〜58年のインド大反乱(セポイの反乱)をきっかけに、1858年のインド統治法によって解散しました。会社の統治の腐敗や収奪的支配への批判が高まっており、インド大反乱はイギリス政府が直接統治に乗り出す最終的な契機となりました。
Q. オランダ東インド会社(VOC)とどう違うのですか?
A. 両社とも特許会社の形式を取りましたが、VOCは1602年設立で資本規模が当初から大きく、東南アジア(モルッカ諸島など)の香辛料貿易を支配しました。イギリス東インド会社は東南アジア争奪でオランダに敗れたのちインドに特化し、最終的にインド亜大陸全体の支配権を確立しました。
まとめ

1600年に香辛料貿易会社として出発したイギリス東インド会社は、アンボイナ事件での挫折を乗り越え、インドを舞台に貿易・軍事・統治の三つを一手に担う前代未聞の組織へと成長しました。プラッシーの戦い(1757年)でインドの実質的支配を確立し、18世紀後半から19世紀にかけてインド亜大陸の富を組織的に吸収しながら、近代帝国主義の先駆者となりました。最終的に1858年のインド大反乱後に解散しましたが、その活動が刻んだ経済・政治・文化の痕跡は今日のインドにも深く残っています。「色多々(1600)東インド会社」の語呂とともに、設立年・アンボイナ事件・プラッシーの戦い・解散年という四つのターニングポイントを軸に、会社の変質を縦軸で押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
設立日「1600年12月31日」は通説として広く使われる。エリザベス1世が特許状に署名した日付とされるが、研究者によっては12月31日(旧暦)の換算に注意を促す場合がある。
オランダ東インド会社(VOC)との設立年の差(1600年対1602年)はよく試験で問われる。イギリスが2年早い点を明確に記載した。
アンボイナ事件の犠牲者数については史料により差異がある。本文では「商館員ら約20名」と記述したが、正確な人数は10名前後とする史料もある。
プラッシーの戦いにおけるミール・ジャーファルの内通は広く知られているが、契約の詳細については史料間に差異がある。本文では「密約を結んで動かなかった」という通説的理解にとどめた。
ロバート・クライヴの死因については「自殺」とする説が有力だが、確証がないとする見解もある。本文では「自殺したとされる」という表現を用いた。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1602-dutch-east-india-company・1757-battle-of-plassey を記載。存在しない場合は削除すること。