高校/戦争
1757
プラッシーの戦いが起こる
ロバート・クライヴ(イギリス東インド会社)
語呂
覚え方
蝗(いなご)な(1757)プラッシーの戦い
いなごな(1757)プラッシーの戦い
1757年6月、インド北東部のベンガル地方でプラッシーの戦いが起こりました。イギリス東インド会社のロバート・クライヴが率いるわずか3,000人ほどの兵力は、フランスと結んだベンガル太守(ナワーブ)シラージュ・ウッダウラーの5万人を超える大軍を相手に完勝します。この勝利の背景には、太守側の有力武将ミール・ジャファルをあらかじめ買収・寝返らせるという謀略がありました。プラッシーの戦いはインドにおける英仏の覇権争いを決定づけ、その後イギリスがインド亜大陸全体を植民地支配していく起点となった歴史的転換点です。
この記事のポイント
- 1757年6月、ベンガル地方でイギリス東インド会社軍がベンガル太守・フランス連合軍を破った
- クライヴは太守側の武将ミール・ジャファルを事前に買収・寝返らせ、数的不利を覆した
- この勝利でイギリスはインドにおける英仏抗争を決定的に制し、フランスの影響力を排除した
- 1765年にはベンガルの徴税権(ディーワーニー)を獲得し、経済的支配を確立した
- プラッシーの戦いはインド植民地化の実質的な出発点とされ、以後約200年のイギリス支配の端緒となった
ここが面白い「200人で5万人に勝つ」――これは無謀な賭けではなく、事前に仕組まれた罠だった。1757年、インドの運命を変えた一戦の真相とは。
プラッシーの戦いは突然起きたわけではありません。ムガル帝国の衰退、ヨーロッパ列強の進出、そして英仏の世界的な覇権争いという大きな流れの中で生まれた戦いです。その背景を順に見ていきましょう。
ムガル帝国の衰退とベンガルの半独立
17世紀後半にムガル帝国が衰退すると、インド各地でナワーブ(太守)と呼ばれる地方有力者が実質的な独立政権を築きました。ベンガル地方もその一つで、肥沃な農地と繁栄した交易を背景に豊かな地域でした。イギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ商人はこのベンガルを重要な交易拠点とし、それぞれ東インド会社を通じて勢力を張っていました。
英仏の世界的抗争と七年戦争
1756年に始まった七年戦争はヨーロッパだけでなく、北米・インド・西アフリカを巻き込む世界規模の戦争でした。北米では「フレンチ・インディアン戦争」として英仏が衝突し、インドでも東インド会社を通じた代理戦争が展開されました。インドにおける英仏抗争(カーナティック戦争)はすでに1740年代から続いており、プラッシーの戦いはその流れの中に位置づけられます。
カルカッタ陥落と「ブラック・ホール事件」
1756年、ベンガルの新太守に就いたシラージュ・ウッダウラーは、イギリス東インド会社がカルカッタの要塞を無断で強化していることを問題視し、攻撃を仕掛けてカルカッタを占拠しました。このとき捕虜のイギリス人多数を狭い独房に押し込め、多くが窒息死したとされる「ブラック・ホール事件」が起きました(死者数については諸説あり誇張もあるとされる)。この事件はイギリス国内で強い反発を呼び、報復遠征の大義名分となりました。
クライヴの謀略とミール・ジャファルの寝返り
報復のためマドラスから派遣されたロバート・クライヴは、まずカルカッタを奪還した後、太守側の有力武将ミール・ジャファルと秘密交渉を行いました。「太守を倒した後、あなたを新しい太守にする」という約束のもと買収・懐柔したのです。プラッシーの戦いが始まると、ミール・ジャファルは大軍を率いながらも動こうとせず、太守軍は主力を欠いたまま戦わされる事態となりました。
謀略と武力で決まったインドの覇権
≒ 軍事力だけでなく外交・情報戦で勝負が決まる現代の地政学と同じ構図クライヴは数的劣勢を補うため敵側の武将を買収するという謀略を用い、戦場でその効果が発揮された。純粋な軍事力の衝突ではなく、政治工作が勝負を決めた点が特徴的。
インドにおける英仏抗争の決着
≒ 資源・市場をめぐる大国間の競争が現地社会を巻き込む構図七年戦争の一環としてのインド争奪戦で、プラッシーの勝利によりイギリスがフランスを決定的に退けた。フランスはその後インドでの影響力を急速に失っていく。
植民地支配の経済的基盤の確立
≒ 現地の税収・資源を宗主国が収奪する植民地経済の原型1765年にムガル皇帝からベンガルの徴税権(ディーワーニー)を獲得したことで、東インド会社はインドの富を本国に送り出す仕組みを構築した。これがインド植民地化の経済的基盤となった。
1600イギリス東インド会社設立エリザベス1世の勅許でイギリス東インド会社が設立。インド・アジアとの交易独占権を持つ特許会社として出発した。
1744カーナティック戦争開始インド南部で英仏の東インド会社が武力衝突(第一次カーナティック戦争)。インドを舞台にした英仏の代理戦争が始まる。
1756七年戦争勃発・カルカッタ陥落ヨーロッパで七年戦争が始まる。同年ベンガル太守シラージュ・ウッダウラーがカルカッタを占拠し「ブラック・ホール事件」が起きる。
1757カルカッタ奪還1月、クライヴがマドラスから海路北上しカルカッタを奪還。
1757プラッシーの戦い6月23日、プラッシーでクライヴ率いるイギリス東インド会社軍がベンガル太守軍を撃破。ミール・ジャファルの寝返りが勝敗を決した。
1757ミール・ジャファルが新太守に戦後、約束通りミール・ジャファルが新たなベンガル太守に擁立される。実質的にイギリスの傀儡政権となった。
1763七年戦争終結(パリ条約)パリ条約でフランスがインドへの軍事介入権を失い、イギリスのインド優位が国際的に確定した。
1765ディーワーニー獲得ムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの徴税権(ディーワーニー)を獲得。東インド会社による経済的支配が確立する。
1773規制法(インド法)制定東インド会社の権力が肥大化したため、イギリス議会が規制法を制定。会社統治に国家の監督が入るようになる。
1858東インド会社解散・直接統治へ1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を受け、イギリス政府がインドを直接統治。東インド会社は解散し、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる時代へ。
◎イギリスはプラッシーの勝利でベンガルの政治的実権を掌握し、その後1765年の徴税権(ディーワーニー)獲得によって経済的支配も確立した。フランスのインドにおける影響力は決定的に衰退し、イギリスがアジア貿易の覇権を握る礎となった。
△戦いはイギリス側の謀略(武将の買収・寝返り)によって勝敗が決しており、純粋な軍事的勝利とは言えない。また、東インド会社による徴税権の行使はベンガルの農民・職人層に重税と搾取をもたらし、1770年代のベンガル大飢饉(数百万人が死亡したとされる)の遠因の一つになったとも指摘されている。
ロバート・クライヴ
イギリス東インド会社の軍事指揮官もともと東インド会社の書記として渡印したが、軍事的才能を発揮してカーナティック戦争で頭角を現した。プラッシーの戦いでの勝利により「インドの覇者クライヴ」として英雄視されたが、帰国後は過度な私利を得たとして批判も受けた。
シラージュ・ウッダウラー
ベンガル太守(ナワーブ)プラッシーの戦いで敗れた後、逃亡中に捕らえられ処刑された。フランスと手を結んでイギリスに対抗しようとしたが、家臣の裏切りにより短命な治世に終わった。
ミール・ジャファル
ベンガル太守軍の武将・のちの太守クライヴに買収されて戦場で中立を守り、太守軍の崩壊を招いた。戦後は約束通り新太守に擁立されたが、実質的にはイギリスの傀儡として行動した。後に東インド会社との関係が悪化し太守の座を失うこともあった。
デュプレクス
フランス東インド会社インド総督インド各地の太守と同盟を結び、フランスのインド支配を目指した戦略家。カーナティック戦争でイギリスと激しく争ったが、プラッシーの敗北の前に本国に召還されており、この戦いには直接関与していない。フランスのインド戦略の中心人物として試験に登場する。
- 東インド会社
- ヨーロッパ各国がアジアとの交易のために設立した特許会社。イギリス東インド会社(1600年設立)はインドで貿易から始まり、やがて軍事・行政権を持つ植民地統治機構へと変質した。
- ナワーブ(太守)
- ムガル帝国の地方総督に由来する称号。帝国の衰退後、実質的に独立した地方君主として振る舞うようになった。ベンガルの太守は豊かな土地の支配者として大きな富と軍事力を持っていた。
- ディーワーニー(徴税権)
- ムガル帝国時代の財務・徴税を担当する官職名。1765年、イギリス東インド会社はムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサのディーワーニーを認められ、現地の税収を直接管理する権限を獲得した。
- 七年戦争
- 1756〜1763年にヨーロッパで始まり北米・インド・西アフリカにまで拡大した国際戦争。イギリスとプロイセン対フランス・オーストリア・ロシアなどが争い、イギリスが勝利して世界的な覇権を確立した。プラッシーの戦いはこの戦争のインド戦線にあたる。
- カーナティック戦争
- 18世紀にインド南部(カーナティック地方)を主戦場として英仏東インド会社が繰り広げた一連の争い(第一〜三次)。プラッシーの戦いはベンガルが舞台だが、この英仏抗争の延長線上にある。最終的にイギリスがフランスを駆逐した。
1「蝗」のような大軍を少数で撃破
クライヴ率いるイギリス東インド会社軍は約3,000人(うちイギリス人兵士は数百人、残りはインド人セポイ)に過ぎなかったが、数万の大軍を誇る太守軍に勝利した。その理由は軍事力より政治工作であり、武将ミール・ジャファルの寝返りが実質的に勝負を決めた。語呂の「蝗(いなご)」は大軍のイメージとも重なる。
2「プラッシー」の地名の由来
プラッシー(Plassey)はベンガル語でパラシ(Palashi)とも表記される。この地にはプラッシュの木(パラシュの木、フレームオブザフォレストとも呼ばれる花木)が多く茂っていたことに由来するとされる。現在はインドのウエストベンガル州に位置する。
3クライヴは書記から始まった
ロバート・クライヴは17歳でイギリス東インド会社の書記(下級事務員)としてインドに渡った。軍人として正規の訓練を受けたわけではなく、インド各地での戦闘経験を通じて軍事指揮官として頭角を現した。帰国後に莫大な財産を築いたことが議会で問題となり、晩年は苦境に立たされた。
4プラッシーの戦いと「富の流出」論
インドの民族主義者ダーダーバーイー・ナオロージーは19世紀末、「富の流出(Drain of Wealth)」という概念を提唱し、プラッシーの戦い以降にイギリスがインドから一方的に富を吸い取り続けたと批判した。この論はその後のインド独立運動の思想的基盤の一つとなった。
5同じ年にフリードリヒ大王も連勝
1757年はヨーロッパで七年戦争が激しく戦われた年でもあり、プロイセンのフリードリヒ2世(大王)がロスバッハの戦い・ロイテンの戦いでフランス軍・オーストリア軍を相次いで撃破した年でもある。インドのプラッシーと北欧・中欧での戦いは、同一の国際戦争(七年戦争)の異なる戦線として連動していた。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1757年。語呂は「蝗(いなご)な(1757)プラッシーの戦い」。
指揮官はイギリス東インド会社のロバート・クライヴ。相手はフランスと結んだベンガル太守シラージュ・ウッダウラー。
勝利の鍵:太守側の武将ミール・ジャファルを買収・寝返らせた謀略が決め手となった。
1765年にベンガルの徴税権(ディーワーニー)を獲得し、インド植民地化の経済的基盤が成立した。
七年戦争(ヨーロッパ)・フレンチ・インディアン戦争(北米)と同時期の英仏世界規模抗争の一環であることを押さえる。
語呂クイズ
「蝗(いなご)な(1757)プラッシーの戦い」= プラッシーの戦いが起こるは西暦何年?
- Q. プラッシーの戦いはなぜ重要なのですか?
- A. この戦いでイギリス東インド会社がベンガルの政治的実権を握り、その後のインド植民地化の起点となったためです。インドにおける英仏の覇権争いにも決着をつけた点で、世界史的に重要な転換点です。
- Q. イギリス軍はなぜ圧倒的に少ない兵力で勝てたのですか?
- A. 軍事力ではなく謀略が勝因です。クライヴは太守側の有力武将ミール・ジャファルを事前に買収し、戦場で動かないよう取り決めておきました。主力が動かなかった太守軍は烏合の衆となり崩れていきました。
- Q. ミール・ジャファルはその後どうなりましたか?
- A. 約束通り新しいベンガル太守に擁立されましたが、実質的にはイギリス東インド会社の意向に従う傀儡政権でした。後に東インド会社との関係が悪化し太守の座を追われる局面もありましたが、会社の支援を受けて復位するなど不安定な立場が続きました。
- Q. ディーワーニー(徴税権)の獲得とはどういう意味ですか?
- A. 1765年にムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの税を集める権限を認められたことです。これによりイギリス東インド会社は軍事支配に加え、インドの富を本国に送り出す経済的な仕組みを手に入れ、植民地支配が実態を伴うものになりました。
- Q. プラッシーの戦いと七年戦争はどう関係していますか?
- A. 七年戦争(1756〜1763年)はヨーロッパから北米・インドまで広がった国際戦争で、プラッシーの戦いはそのインド戦線にあたります。七年戦争終結後のパリ条約(1763年)でフランスはインドへの軍事介入権を失い、イギリスのインド支配は国際的にも確定しました。
プラッシーの戦いは、軍事力ではなく謀略によって勝敗が決した戦いでした。クライヴが敵の武将を買収・寝返らせ、数万の大軍を実質的に無力化したのです。しかしその結果はインド史を大きく塗り替えました。イギリス東インド会社はベンガルの政治的・経済的支配権を獲得し、その後約200年にわたるイギリスのインド植民地統治の扉を開きました。「蝗(いなご)な(1757)プラッシーの戦い」の語呂とともに、この年がインド植民地化の出発点であること、そしてディーワーニー(徴税権)獲得(1765年)とセットで覚えておきましょう。
編集メモ(ファクト)
プラッシーの戦いの正確な兵力数については資料によって異なるため、「約3,000人対数万人」という大枠の記述にとどめた。
「ブラック・ホール事件」の死者数は当時のイギリス側の記録に基づくものであり、誇張・政治的意図があるとする説もあるため、本文中に注記を入れた。
ミール・ジャファルの後の経緯は複雑なため、簡略化して記述した。
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