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高校/宗教
1598

アンリ4世がナントの勅令を出す

アンリ4世(フランス王・ブルボン朝)
語呂
覚え方
以後苦は(いごくは)なし(1598)ナントの勅令
いごくは(1598)ナントの勅令

1598年、フランス王アンリ4世はナントの勅令を発布し、プロテスタント(ユグノー)に信仰の自由と市民としての権利を保障しました。16世紀後半、フランスではカトリックとユグノーの間で宗教戦争(ユグノー戦争)が約40年にわたって続き、1572年のサンバルテルミの虐殺など凄惨な出来事が繰り返されていました。自らユグノーの指導者だったアンリ4世は、王位につくためにカトリックへ改宗しながらも、この勅令でかつての同志であるユグノーにも権利を認め、内戦に終止符を打ちました。ただし1685年にルイ14世が勅令を廃止したため、多くのユグノーが国外へ亡命し、フランス経済に深刻な打撃を与えました。

この記事のポイント

  • 1598年、アンリ4世がナントの勅令を発布し、ユグノー(フランスのプロテスタント)に信仰の自由と市民的権利を保障
  • 約40年続いたユグノー戦争(宗教戦争)が終結し、フランスの王権が安定した
  • アンリ4世はもとユグノーの指導者で、王位を得るためにカトリックへ改宗したという複雑な背景がある
  • ユグノーは一部の要塞都市(安全保障のための都市)を保持する権利も認められた
  • 1685年、ルイ14世がナントの勅令を廃止(フォンテーヌブローの勅令)し、多くのユグノーがオランダ・イギリスなどへ亡命してフランス経済が打撃を受けた
ここが面白い

「信じる神が違っても、同じ国民として生きられる」――宗教が違えば殺し合いが当たり前だった時代に、それを公文書で認めたのがナントの勅令だった。

ここに至るまでの流れ
背景

ナントの勅令は、16世紀後半のフランスを引き裂いた宗教戦争という激動の末に生まれました。その背景を順に見ていきましょう。

宗教改革とユグノーの登場

16世紀初め、ルターやカルバンの宗教改革がヨーロッパ各地に広まりました。フランスでカルバン派(改革派)を信じる人々はユグノーと呼ばれ、商工業者・貴族層を中心に急速に広まりました。カトリックが国教であるフランスでは、ユグノーは異端として迫害を受け、カトリックとの対立が深刻化しました。

ユグノー戦争(1562〜1598年)の惨禍

1562年に内戦が勃発し、以後8回にわたる戦争が繰り返されました。最大の悲劇が1572年のサンバルテルミの虐殺で、結婚式のためにパリに集まったユグノーの指導者層が、カトリック側の手によって組織的に殺されました。犠牲者は数千〜数万人に上るとされ、ヨーロッパ全土に衝撃を与えました。

アンリ4世の即位とカトリックへの改宗

ユグノーの指導者アンリ・ド・ナバルは、カペー朝の傍系としてフランス王位継承権を持っていました。1589年に前王アンリ3世が暗殺されると王位を継承しましたが、カトリック諸勢力や国民の反発を受けました。1593年にアンリ4世はカトリックへ改宗し(「パリはミサの価値がある」という言葉で有名)、1594年にパリに入城して王権を確立しました。

ナントの勅令の主な内容

1598年にアンリ4世が発布したこの勅令は、ユグノーにカトリックと同等の市民的権利を認め、礼拝の自由をユグノーが多い地方や貴族の領地に限って保障しました。また裁判所での公平な扱い、官職への就任権、一定の要塞都市(ラ・ロシェルなど)の保持権なども含まれていました。あくまで王の恩典として与えられたものであり、完全な宗教的自由ではなかった点に注意が必要です。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

ユグノーへの信仰の自由の保障

≒ 異なる宗教・思想を持つ人々が共存できる社会の先駆け

カトリックが国教のフランスで、プロテスタントにも礼拝の自由を認めた。ただしすべての地域で自由に礼拝できたわけではなく、条件付きの保障であった。

ユグノーへの市民的・政治的権利の付与

≒ 宗教に関係なく国民としての権利を持つという考え方

裁判での公平な扱いや官職への就任権など、カトリックと同等の市民権を保障した。宗教が違っても同じ王の臣民として扱われる原則を打ち立てた。

長期の宗教内戦の終結

≒ 対話と妥協による紛争解決のモデル

約40年続いたユグノー戦争に終止符を打ち、フランスの統一と復興の土台を築いた。アンリ4世はブルボン朝の基礎を固め、フランス絶対王政の先駆けとなった。

前後のできごと
年表
1517
宗教改革の始まりルターが95か条の論題を発表し、宗教改革がヨーロッパに広まる。フランスではカルバン派(ユグノー)が台頭する。
1562
ユグノー戦争勃発カトリックとユグノーの武力衝突が始まり、以後断続的に内戦が続く。
1572
サンバルテルミの虐殺8月24日、パリでカトリック側がユグノーの指導者層を組織的に殺害。数千〜数万人が犠牲になったとされる。
1589
アンリ4世即位ユグノーの指導者アンリ・ド・ナバルがフランス王に即位(ブルボン朝の初代)。カトリック勢力の激しい抵抗に遭う。
1593
カトリックへ改宗アンリ4世がカトリックに改宗し、国内の支持を固める。「パリはミサの価値がある」との言葉が伝わる。
1594
パリ入城・王権確立アンリ4世がパリに入城し、フランス全土の支配を確立する。
1598
ナントの勅令発布4月にナントの勅令を発布し、ユグノーへの信仰の自由と市民権を保障。ユグノー戦争が終結する。
1610
アンリ4世暗殺アンリ4世がカトリック狂信者に暗殺される。在位中に農業・商工業の振興を進め「庶民の王」と慕われた。
1685
ナントの勅令廃止ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令を出してナントの勅令を廃止。多くのユグノーがオランダ・イギリスなどへ亡命し、フランス経済が打撃を受ける。
結果とその後
結果
約40年に及んだユグノー戦争が終結し、フランスの王権が安定した。アンリ4世はその後農業・産業の振興を推進し、荒廃した国土の復興を進めた。異なる宗教を持つ人々が同じ国民として共存できるという考え方は、後の宗教的寛容の思想に影響を与えた。
ナントの勅令はあくまで王の恩典として与えられたものであり、宗教的自由の完全な保障ではなかった。1685年にルイ14世が廃止すると、フランスに残留したユグノーは再び迫害を受け、国外に逃れた数十万人の優秀な職人・商人・学者がオランダ・イギリスなどへ亡命してフランス経済に大きな打撃を与えた点も重要である。
登場人物
人物

アンリ4世

フランス王・ブルボン朝の初代国王(在位1589〜1610年)

もともとユグノーの指導者だったが、王位を確立するためにカトリックへ改宗。ナントの勅令でかつての仲間にも権利を認めた。農民への思いやりから「庶民の王」と呼ばれた。

カトリーヌ・ド・メディシス

フランス王太后・アンリ2世の妃

息子たちの治世を後見した政治家。サンバルテルミの虐殺への関与が疑われているが、史料上の評価は分かれる。ユグノー戦争期のフランス宮廷を動かした重要人物。

ギーズ公

カトリック強硬派の指導者

フランス国内のカトリック連盟(カトリック同盟)を率いて強硬に戦った。アンリ4世の王位を認めず、スペインの援助を受けて対抗したが、1588年に暗殺された。

ルイ14世

フランス王(在位1643〜1715年)・太陽王

1685年にフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を廃止した。強力な絶対王政とカトリックへの一宗教統一を推進したが、ユグノーの大量亡命によりフランスの産業・経済は打撃を受けた。

キーワード解説
用語
ユグノー
フランスのプロテスタント(カルバン派)を指す呼び名。商工業者や一部の貴族に広まり、カトリックとの対立が16世紀後半の宗教戦争を引き起こした。
ユグノー戦争
1562年から1598年にかけてフランスで続いたカトリックとユグノーの宗教内戦。8回にわたる戦争があり、1572年のサンバルテルミの虐殺などの悲劇を生んだ。ナントの勅令で終結した。
サンバルテルミの虐殺
1572年8月24日(聖バルトロマイの祝日)にパリでカトリック側がユグノーを組織的に大量殺害した事件。犠牲者数は数千〜数万人とされ、フランスの宗教戦争で最も残酷な事件として知られる。
ブルボン朝
アンリ4世が1589年に開いたフランスの王朝。ルイ13世・ルイ14世・ルイ15世・ルイ16世と続き、フランス革命(1789年)まで続いた。ナポレオン後に復活するが最終的に1830年に終わる。
フォンテーヌブローの勅令
1685年にルイ14世が発布した勅令で、ナントの勅令を廃止してユグノーの信仰を禁じた。これによりユグノーの大量亡命が起こり、フランスは優れた人材と技術を多く失った。
もっと知りたい
豆知識

1「パリはミサの価値がある」は本当に言ったのか

アンリ4世がカトリックへ改宗した際に語ったとされるこの言葉は非常に有名だが、同時代の一次史料には確認されておらず、後世に作られた言葉とする説もある。ただし、彼が信仰よりも政治的判断を優先した現実主義者だったことは、行動から十分うかがえる。

2ユグノーが亡命したことでヨーロッパの産業が発展した

1685年のナントの勅令廃止後、フランスから逃れたユグノーは熟練した職人・商人・銀行家が多く、移住先のオランダ・イギリス・プロイセンなどはその技術と資本を取り込んで産業発展を遂げた。一方でフランスは絹織物・時計・ガラス製造などの分野で大きな打撃を受けたとされる。

3ナントはどこにある?

ナントはフランス西部、ロワール川河口に近い港湾都市。当時フランス王室がこの地に滞在中に勅令を発布したため「ナントの勅令」と呼ばれる。現在もフランスの重要な都市の一つで、「ナント」という地名自体が世界史の授業で必ず登場する。

4アンリ4世は在位21年で暗殺された

ナントの勅令を出し、農業・産業の振興でフランスを復興させたアンリ4世だが、1610年にカトリック狂信者のフランソワ・ラヴァイヤックに馬車の中で刺殺された。暗殺の背後関係には謎が多く、スペインや教皇庁の関与を疑う説もある。

5宗教的寛容の先例として後世に評価された

ナントの勅令は17〜18世紀の啓蒙思想家たちに宗教的寛容の先例として引用され、ジョン・ロックやヴォルテールが寛容論を展開する際の歴史的根拠の一つとなった。廃止後のユグノー大量亡命はむしろ宗教的不寛容の弊害を示す事例として繰り返し論じられた。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1598年。語呂は「以後苦は(いごくは)なし(1598)ナントの勅令」。
発布したのはアンリ4世(ブルボン朝の初代フランス王)。もともとユグノーの指導者だったが、王位を確立するためにカトリックへ改宗した人物。
目的:約40年続いたユグノー戦争(カトリックとプロテスタントの宗教内戦)を終結させ、フランスの統一と王権安定を図った。
内容のポイント:ユグノーへの信仰の自由・市民的権利(官職就任権・公平な裁判)・一部要塞都市の保持を認めた。ただしすべての地域で自由な礼拝が許可されたわけではない。
1685年にルイ14世がフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を廃止したこと、その結果多くのユグノーが亡命してフランス経済に打撃を与えたことも頻出。
語呂クイズ
「以後苦は(いごくは)なし(1598)ナントの勅令」= アンリ4世がナントの勅令を出すは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ナントの勅令を出したのは誰ですか?
A. フランス王アンリ4世(ブルボン朝の初代国王)です。もともとプロテスタント(ユグノー)の指導者でしたが、王位を確立するためにカトリックへ改宗し、1598年にこの勅令を発布しました。
Q. ナントの勅令はなぜ出されたのですか?
A. 1562年から続くユグノー戦争(カトリックとプロテスタントの宗教内戦)によってフランスが荒廃していたため、宗教的妥協によって内戦を終結させ、国家の統一と復興を図る必要があったからです。
Q. ユグノーとはどういう人たちですか?
A. フランスのプロテスタント(カルバン派)のことです。16世紀に商工業者や一部の貴族を中心に広まりましたが、カトリックが国教のフランスでは異端として迫害を受け、カトリックとの激しい対立がユグノー戦争を引き起こしました。
Q. サンバルテルミの虐殺とは何ですか?
A. 1572年8月24日にパリで起きた大虐殺事件です。王家の婚礼のためにパリに集まっていたユグノーの指導者層が、カトリック側によって組織的に殺害されました。犠牲者は数千〜数万人に上るとされ、ユグノー戦争の中で最も残酷な出来事として知られています。
Q. ナントの勅令はいつ廃止されましたか?また、その影響は?
A. 1685年にルイ14世がフォンテーヌブローの勅令を発布してナントの勅令を廃止しました。これによりユグノーの信仰は再び禁止され、数十万人のユグノーがオランダ・イギリス・プロイセンなどに亡命しました。彼らの多くは優れた職人・商人・知識人であり、フランスの産業と経済は大きな打撃を受けました。
まとめ

ナントの勅令は、宗教の違いで殺し合いを続けてきたフランスが、妥協と共存を選んだ歴史的な転換点です。アンリ4世は自らの信仰より国家の統一を優先し、かつての仲間であるユグノーにも権利を認めることで長い内戦を終わらせました。しかし1685年のルイ14世による廃止が示すように、宗教的寛容は王の意志次第でいつでも取り消せるものでした。「以後苦は(いごくは)なし(1598)ナントの勅令」の語呂とともに、宗教改革・ユグノー戦争・フランス絶対王政という大きな流れの中に位置づけて理解しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
ギーズ公のpeople項目に誤ってtextキーが混入しないよう注意。noteキーのみ使用している。
ユグノー亡命者数は史料によって幅があるため「数十万人」という表現にとどめた。
サンバルテルミの虐殺の犠牲者数は諸説あるため「数千〜数万人」と幅を持たせて記述した。
ナントの勅令は信仰の自由を全面的に認めたものではなく、条件付きの保障であった点を複数箇所で注記した。
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