中学/戦争
1429
ジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放する
ジャンヌ・ダルク
語呂
覚え方
いよいよ二苦(いよにく)(1429)ジャンヌ・ダルク
いよにく(1429)ジャンヌ・ダルク
1429年、百年戦争のさなかにあるフランスで、農民の娘ジャンヌ・ダルクが突然歴史の表舞台に現れました。イングランド軍に包囲された要衝オルレアンを解放し、王太子シャルルをランス大聖堂で戴冠させることに成功した彼女の活躍は、劣勢に立たされていたフランスに劇的な転換点をもたらしました。ジャンヌはその後ブルゴーニュ派に捕らえられ、1431年に異端として火刑に処されましたが、フランスの国民的英雄として今も語り継がれています。彼女の登場がなければ、1453年のフランス勝利・百年戦争終結はなかったとも言われるほど、その歴史的意義は計り知れません。
この記事のポイント
- 1429年、農民の少女ジャンヌ・ダルクがイングランド軍に包囲されていたオルレアンを解放した
- 神の声(大天使ミカエル・聖カトリーヌ・聖マルガリタ)の啓示を受けたと主張し、フランス軍を鼓舞した
- オルレアン解放後、シャルル王太子はランス大聖堂でシャルル7世として正式に戴冠した
- 1431年、ジャンヌはブルゴーニュ派に捕らえられてイングランドに引き渡され、異端として火刑に処された
- 1456年に名誉回復・無罪とされ、1920年にローマ・カトリック教会の聖人に列せられた
ここが面白い「神の声に従い、私はフランスを救う」――農民の少女がよろいをまとい、百年戦争の流れを一変させた奇跡の年が1429年だった。
ジャンヌ・ダルクの登場は突然のように見えますが、百年戦争という長い戦乱と、フランス王国が直面していた政治的危機という背景なしには理解できません。その歴史的文脈を順に見ていきましょう。
百年戦争とフランスの危機
百年戦争(1337〜1453年)はフランス王位継承権とフランス内の領土をめぐるイングランドとフランスの争いです。1415年のアジャンクールの戦いでフランス軍は大敗し、1420年のトロワ条約でシャルル6世はイングランド王ヘンリー5世を後継者に指名。フランス北部はほぼイングランドの支配下に入りました。ブルゴーニュ公国もイングランド側について、フランス王家は苦境に立たされていました。
農民の少女が「神の声」を聞く
ジャンヌ・ダルクは1412年ごろ、フランス東部ドンレミ村の農民の家に生まれました。12〜13歳のころから大天使ミカエルや聖人の声を聞き、フランスを救えという啓示を受けたと証言しています。1429年、17歳前後になったジャンヌはシャルル王太子のもとへ赴き、自分をオルレアンへ向かわせるよう求めました。王太子はジャンヌの信仰と確信に動かされ、軍の指揮を任せることを決断しました。
オルレアン包囲戦と解放
オルレアンはロワール川沿いの要衝で、フランス中部への入り口にあたる都市です。1428年10月からイングランド軍に包囲されており、陥落すれば南フランスへの道が開かれてしまうという危機的状況にありました。1429年4月、ジャンヌはフランス軍とともにオルレアンに入城し、5月8日までにイングランド軍の包囲を破って城を解放することに成功しました。この勝利はフランス全土に希望をもたらしました。
シャルル7世の戴冠とジャンヌの処刑
オルレアン解放後、ジャンヌはフランス軍の勢いに乗ってランスへ向かい、7月17日にシャルル王太子をシャルル7世としてランス大聖堂で戴冠させることに成功しました。これはフランス王の正統性を世に示す重要な儀式でした。しかし1430年にジャンヌはブルゴーニュ派に捕らえられ、イングランドに引き渡されて異端裁判にかけられ、1431年5月30日に火刑に処されました。
百年戦争の転換点となったオルレアン解放
≒ 絶望的な包囲戦を打ち破る逆転劇イングランド軍の包囲を受けていたオルレアンをジャンヌ率いるフランス軍が解放。劣勢だったフランスが攻勢に転じるきっかけをつくった。
シャルル7世の正式戴冠によるフランス王権の確立
≒ 正統な王として国民に認められる「就任式」ランス大聖堂での戴冠式は、トロワ条約で傷ついたフランス王権の正統性を回復する象徴的な行為だった。これにより国内の支持が固まった。
フランス国民意識の覚醒
≒ 「国のために戦う」というナショナリズムの芽生えジャンヌの登場は、単なる封建的な主君への忠誠を超え、フランスという国・民族への帰属意識を人々に呼び起こしたとされる。近代的なナショナリズムの先駆けとみなされることが多い。
1337百年戦争始まるフランス王位継承権をめぐりイングランドとフランスの戦争が始まる。
1415アジャンクールの戦いフランス軍がイングランド軍に大敗。イングランドがフランス北部への影響力を強める。
1420トロワ条約フランス王シャルル6世がイングランド王ヘンリー5世を後継者に指名。シャルル王太子の正統性が揺らぐ。
1428オルレアン包囲開始イングランド軍がフランス中部の要衝オルレアンを包囲。フランスの危機が深まる。
1429ジャンヌ、王太子に謁見ドンレミ村出身の農民の少女ジャンヌ・ダルクがシャルル王太子のもとへ赴き、軍の指揮を任される。
1429オルレアン解放(5月8日)ジャンヌ率いるフランス軍がオルレアンのイングランド軍包囲を破り、城を解放。百年戦争の転換点となる。
1429シャルル7世の戴冠(7月17日)ジャンヌに導かれてランス大聖堂でシャルル7世が正式に戴冠。フランス王権の正統性が回復される。
1430ジャンヌ、捕縛されるコンピエーニュの戦いでブルゴーニュ派に捕らえられ、イングランドに引き渡される。
1431ジャンヌ、火刑(5月30日)ルーアンで異端裁判にかけられ、火刑に処される。享年19歳前後。
1453百年戦争終結フランスがカレーを除くフランス国内の領土をすべて回復し、百年戦争が終結。ジャンヌの功績が礎となった。
◎オルレアン解放とシャルル7世の戴冠によりフランスは劣勢から立ち直り、1453年に百年戦争を勝利で終わらせた。ジャンヌ・ダルクはフランスの国民的英雄となり、近代的なナショナリズム意識の先駆けとしても評価される。
△ジャンヌは1431年に異端として火刑に処された。彼女の登場が「神の奇跡」か「政治的な演出」かについては歴史家の間でも議論があり、当時のフランス王権による利用という側面も指摘される。無罪・聖人列聖は没後数十年〜約500年後のことであり、彼女の死は当時の政治的複雑さを反映している。
ジャンヌ・ダルク
フランスの農民の少女・軍指揮者(1412?〜1431年)ドンレミ村生まれ。神の声に従いシャルル王太子に仕え、オルレアンを解放した。1431年に火刑。1456年名誉回復、1920年聖人に列せられた。フランスの国民的英雄。
シャルル7世
フランス王(在位1422〜1461年)父シャルル6世のトロワ条約で王位継承が危ぶまれたが、ジャンヌの助けでランスで戴冠。百年戦争を勝利に導いた。
ジャン・ド・リュクサンブール
ブルゴーニュ派の貴族1430年にジャンヌを捕らえ、イングランドに引き渡した人物。ジャンヌの悲劇的な最期に直接関わった。
ピエール・コーション(コーション司教)
ボーヴェ司教・ジャンヌの裁判長イングランド側の意向に沿う形でジャンヌを異端と断定し、火刑判決を下した。後の名誉回復裁判でその裁判の不正が指摘された。
- 百年戦争
- 1337年から1453年まで続いたイングランドとフランスの長期戦争。フランス王位継承権やフランス内の領土をめぐる争いで、断続的に戦闘が繰り広げられた。ジャンヌの活躍が転換点となり、最終的にフランスが勝利した。
- オルレアン解放
- 1429年5月、ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍がイングランド軍のオルレアン包囲を打ち破った出来事。百年戦争の形勢を逆転させた歴史的転換点とされる。
- ランス大聖堂
- フランス北東部の都市ランスにある大聖堂。フランス王の戴冠式が行われてきた聖地。ジャンヌの働きによりシャルル7世がここで戴冠した。
- トロワ条約
- 1420年、フランス王シャルル6世とイングランド王ヘンリー5世の間で結ばれた条約。イングランド王を仏王位継承者に認め、シャルル王太子(のちのシャルル7世)の正統性を否定する内容だった。
- ブルゴーニュ公国
- 中世フランス内のほぼ独立した大諸侯。百年戦争後半、イングランド側について戦った。ジャンヌを捕縛してイングランドに売り渡したのもブルゴーニュ派の貴族だった。
1ジャンヌは正式な騎士ではなかった
ジャンヌは騎士叙任を受けた正式な騎士ではなく、農民の娘のまま軍を率いた。当時の封建社会においてこれは極めて異例のことで、彼女の登場が人々に「奇跡」として受け止められた背景の一つでもある。
2本名は「ジャンヌ・ダルク」ではないとも言われる
「ダルク(d'Arc)」という姓が確認されるのは後世の史料によるとも言われる。当時のジャンヌ自身は裁判で「ジャンヌ」とだけ名乗り、父の名ジャック・ダルクから「ダルク」が普及したとされる。ただし父の姓が「ダルク」であったことは当時の史料でも確認されている。
3火刑後、遺灰がセーヌ川に捨てられた
イングランド側はジャンヌの遺体が聖遺物として崇拝されることを恐れ、火刑後に再び遺体を燃やし、その灰をセーヌ川に流したとされる。それほどジャンヌの存在がイングランドにとって脅威であったことを示すエピソードである。
4処刑から25年後に名誉回復裁判が行われた
1456年、シャルル7世の命により名誉回復裁判が開かれ、1431年の裁判の不正が認定されてジャンヌは無罪とされた。聖人に列せられたのはそれからさらに約460年後の1920年のことである。
5彼女の活躍は後世の芸術に多大な影響を与えた
ジャンヌ・ダルクはシェークスピアの戯曲、ヴェルディのオペラ、ジャン・ジロドゥやベルナール・ショーの戯曲など、多くの文学・芸術作品の主人公となった。特にフランス革命以降、近代ナショナリズムの象徴として繰り返し描かれてきた。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1429年。語呂は「いよいよ二苦(いよにく)(1429)ジャンヌ・ダルク」。
出来事の核心:農民の少女ジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放し、シャルル7世のランス大聖堂での戴冠を実現した。
百年戦争(1337〜1453年)の中の出来事であり、この1429年の転換点がフランスの最終的な勝利につながったことを押さえる。
ジャンヌは1431年に異端として火刑に処されたが、1456年に名誉回復、1920年に聖人に列せられた点も問われることがある。
ジャンヌの登場はフランスの国民意識(ナショナリズム)の覚醒と結びつけて論じられることが多く、近代国家形成との関連で出題されることがある。
語呂クイズ
「いよいよ二苦(いよにく)(1429)ジャンヌ・ダルク」= ジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放するは西暦何年?
- Q. ジャンヌ・ダルクはなぜ戦場に出ることができたのですか?
- A. 神の声による啓示を受けたと主張し、シャルル王太子を直接説得して軍の指揮を任されました。当時の人々は彼女の確信と勇気を「神の奇跡」として受け入れ、士気が大幅に高まりました。
- Q. オルレアン解放がなぜ百年戦争の転換点とされるのですか?
- A. オルレアンはフランス中部への入り口であり、ここが陥落すればフランスの南半分まで危うくなる重要な拠点でした。解放によってフランス軍が攻勢に転じ、シャルル7世の戴冠という政治的成果にもつながったため、戦況の決定的な転換点とされています。
- Q. ジャンヌ・ダルクはなぜ火刑に処されたのですか?
- A. 1430年にブルゴーニュ派に捕らえられてイングランドに引き渡され、異端審問にかけられました。男装をしたこと(聖書の禁止事項とされた)や、神の声を教会の権威より上に置いたことなどが問題とされ、異端と断定されて1431年に火刑に処されました。
- Q. ジャンヌ・ダルクは聖人なのですか?
- A. はい。1431年の有罪判決は1456年の名誉回復裁判で無効とされ、1920年にローマ・カトリック教会によって聖人に列せられました。フランスの守護聖人の一人でもあります。
- Q. 百年戦争はジャンヌの死後も続いたのですか?
- A. はい。ジャンヌは1431年に亡くなりましたが、彼女が起こした転換点の流れを受けてフランスは優勢を保ち続け、1453年にカレーを除くフランス領土をすべて回復して百年戦争を終結させました。
ジャンヌ・ダルクの登場は、神の啓示を信じた一人の少女が歴史を動かした稀有な出来事です。絶望的な包囲戦の中でオルレアンを解放し、シャルル7世の戴冠を実現させたことは、百年戦争の流れをフランスに有利な方向へと大きく変えました。火刑という悲劇的な最期を迎えながらも、のちに名誉を回復されて聖人に列せられたジャンヌの生涯は、フランス国民意識の象徴として今も語り継がれています。「いよいよ二苦(いよにく)(1429)ジャンヌ・ダルク」の語呂とともに、百年戦争の転換点として確実に押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
ジャンヌの生年は1412年ごろとされるが、正確な生年については諸説があるため「1412年ごろ」と表記した。
「ダルク」の姓の由来については当時の史料と後世の記録に差があるため、trivia内で両論を併記した。
ジャンヌが聞いた声の内容・啓示については本人の証言(裁判記録)に基づいており、超自然的事実として断定する表現は避けた。
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コンピエーニュの戦いでの捕縛(1430年)の詳細は教科書レベルでは省略可能なため、timelineでは触れずにpeopleの注記にとどめた。