高校/政治
1368
明が建国される
朱元璋(洪武帝)
語呂
覚え方
いざ見ろや(1368)明の建国
いみろや(1368)明の建国
1368年、朱元璋は中国・南京で即位し、新王朝「明」を建国しました。14世紀前半から続いた元(モンゴル人が支配するユーラシア規模の帝国)の支配を終わらせ、約90年ぶりに漢民族の王朝が中国を統治することになりました。貧農の出身で、幼少期には家族を疫病・飢饉で失い、寺の雑役僧や物乞いとして生き延びた朱元璋が、反乱軍(紅巾の乱)に加わり、頭角を現して天下を統一するまでの軌跡は、中国史上でも特異な立身出世として知られています。建国後は宰相制度を廃止して皇帝独裁体制を確立し、科挙の整備や里甲制(りこうせい)による農村管理を進めるなど、後の中国社会に深く影響を与えた政治制度を次々と整えました。
この記事のポイント
- 1368年、朱元璋が南京で即位し漢民族の王朝「明」を建国
- 元(モンゴル王朝)を北方へ退け、約90年ぶりの漢民族政権が誕生
- 朱元璋は貧農出身・孤児の出自で、紅巾の乱から頭角を現した
- 宰相制度を廃止して皇帝独裁を強化し、中央集権体制を確立
- 科挙の整備・里甲制の導入など、後代の中国を規定する制度を整えた
ここが面白い皇帝になった男は、かつて乞食として寺を転々とした孤児だった。元(モンゴル)を北に追い出し、漢民族の王朝を復興させたその出発点は、家族を疫病と飢饉で失った17歳の秋だった。
明の建国は突然起きたわけではありません。元末期の混乱と、中国社会に蓄積した矛盾が背景にあります。その流れを見てみましょう。
元の支配と漢民族への差別
元(モンゴル王朝)は中国を支配するにあたり、モンゴル人を最上位とする民族別の身分制度を設けていたとされます。漢人(北中国の漢民族)・南人(南中国の漢民族)は政治の中枢から遠ざけられる傾向があり、科挙も一時停止されていました。こうした構造が漢民族の不満を蓄積させました。
天災・疫病・財政悪化による元の弱体化
14世紀前半から中国各地で黄河の氾濫・干ばつ・疫病(ペストを含むとされる)が相次ぎ、農村が疲弊しました。元朝は紙幣の乱発で財政を補おうとしましたが、インフレが進み統治能力が著しく低下しました。
紅巾の乱と朱元璋の台頭
1351年、白蓮教(びゃくれんきょう)系の秘密結社が中心となって紅巾の乱が勃発しました。頭に赤い布を巻くことが特徴の反乱軍で、各地に広がりました。朱元璋は25歳ごろに紅巾軍の一派に加わり、卓越した軍事・政治の才能で急速に頭角を現しました。
ライバル勢力の制圧と統一
紅巾の乱は複数の勢力に分裂しており、朱元璋はその中でも長江流域を拠点に勢力を拡大しました。1363年の鄱陽湖(はようこ)の戦いで最大のライバル陳友諒(ちんゆうりょう)を破り、1367年には別のライバル張士誠(ちょうしせい)も制圧。1368年1月に南京で皇帝に即位し、国号を「明」と定めました。
明の建国と元の撤退
≒ 政権交代と支配民族の入れ替わり1368年1月、朱元璋が南京で即位し洪武帝(こうぶてい)となった。同年秋には明軍が元の首都・大都(現在の北京)を占領し、元の順帝はモンゴル高原に撤退した。
宰相制度の廃止と皇帝独裁
≒ 組織のナンバー2を廃止して社長が全権を握る1380年、洪武帝は宰相(丞相)の胡惟庸(こいよう)を謀反の罪で処刑し、宰相制度そのものを廃止した。以後、六部(りくぶ)が皇帝に直属し、皇帝への権力集中が制度化された。
里甲制と科挙の整備
≒ 村ごとの相互管理・徴税の仕組みと試験による官僚登用農村を110戸単位の「里」に編成し、徴税・治安・労役を相互に負担させる里甲制が整備された。また科挙が再整備され、試験によって官僚を選ぶ制度が確立・強化された。
1351紅巾の乱白蓮教系の反乱軍(紅巾軍)が各地で蜂起。元の支配体制が動揺し始める。
1352朱元璋の参加25歳前後の朱元璋が紅巾軍に加わる。持ち前の統率力で頭角を現す。
1363鄱陽湖の戦い最大のライバル陳友諒との水上決戦(鄱陽湖)で勝利し、長江流域を制する。
1367張士誠を制圧もう一人のライバル張士誠を破り、中国統一へ最後の障壁を排除。
1368明の建国1月、朱元璋が南京で即位し洪武帝となる。国号を「明」と定める。秋に大都(北京)を占領し元の順帝を北方へ退ける。
1380宰相廃止胡惟庸事件を機に宰相制度を廃止。皇帝への権力一極集中が制度化される。
1402永楽帝の即位靖難の変(せいなんのへん)を経て永楽帝(えいらくてい)が即位。のちに都を南京から北京へ遷す。
1405鄭和の南海遠征永楽帝の命で鄭和(ていわ)が大艦隊を率いて南海遠征を開始。東南アジア・インド洋・アフリカ東岸まで達した。
◎漢民族の王朝が約90年ぶりに中国を統治することとなり、文化・制度面での漢文明の復興が進んだ。
◎科挙の整備や里甲制など、明代に確立された制度の多くは後継の清王朝にも引き継がれ、近代中国に至るまで影響を与えた。
△宰相廃止による皇帝への権力集中は、明中期以降に宦官(かんがん)が皇帝の補佐役として台頭する素地をつくり、のちの政治的混乱の一因ともなったとされる。
朱元璋(洪武帝)
明の初代皇帝貧農出身で家族を疫病・飢饉で失い、僧・物乞いを経て紅巾軍に加わり天下を統一。中央集権を徹底し、功臣を多数粛清したことでも知られる。
陳友諒(ちんゆうりょう)
紅巾軍系の最大ライバル長江中流域を拠点とする勢力を率いたが、1363年の鄱陽湖の戦いで朱元璋に敗れ戦死した。
元の順帝(トゴン・テムル)
元の最後の皇帝明軍が大都に迫ると北方(モンゴル高原)へ撤退。元はその後「北元」として存続したとされる。
胡惟庸(こいよう)
明初の宰相洪武帝に謀反の疑いをかけられ1380年に処刑された。この事件を機に宰相制度が廃止された。
永楽帝(えいらくてい)
明の第3代皇帝靖難の変で甥(洪武帝の孫)から帝位を奪い即位。北京遷都・鄭和の南海遠征など積極的な対外政策を展開した。
- 紅巾の乱(こうきんのらん)
- 1351年に起きた元への反乱。頭に赤い布を巻いた反乱軍(紅巾軍)が各地で蜂起し、元の支配を揺るがした。朱元璋はこの乱から台頭した。
- 里甲制(りこうせい)
- 明が農村に導入した行政制度。110戸を1単位(里)とし、納税・労役・治安維持を村の有力者(里長・甲首)が相互に管理・連帯保証する仕組み。現代でいえば「村ごとの相互管理・徴税の仕組み」にあたる。
- 科挙(かきょ)
- 筆記試験によって官僚を選抜する制度。隋代に始まり、明代に整備・強化された。出身身分に関わらず合格すれば官僚になれるとされ、現代でいえば「試験で役人を選ぶ制度」にあたる。
- 宰相(丞相・じょうしょう)
- 皇帝を補佐する最高官職。洪武帝は1380年に宰相制度を廃止し、皇帝が六部を直接統括する独裁体制を確立した。
- 鄭和の南海遠征(ていわのなんかいえんせい)
- 永楽帝の命で1405年から計7回行われた大規模な海上遠征。鄭和が率いた大艦隊は東南アジア・インド洋・アフリカ東岸に達したとされる。
1皇帝になる前は「乞食」だった
朱元璋は安徽省の貧しい農家に生まれ、17歳のとき疫病と飢饉で父・長兄・母を相次いで失った。葬る土地も棺桶も買えず、近隣に頭を下げて土地を借りたとされる。その後は寺の雑役僧として各地を流浪し、物乞いをして生き延びた時期もあった。この体験が後の農民への厚遇政策や、貴族・豪族への猜疑心の源泉となったとも言われている。
2功臣をほぼ根こそぎ粛清した皇帝
洪武帝は建国の功臣たちを、晩年になって次々と謀反の罪で処刑した。その数は胡惟庸事件・藍玉事件(らんぎょくじけん)などの連座を合わせると数万人規模に上ったとされる。「自分の死後に息子(皇太子)が制御できない大物を、今のうちに排除しておく」という意図があったとも言われている。
3明が「明」と名づけられた理由
国号「明」の由来には諸説あり、白蓮教(摩尼教の影響を受けた宗教)が光明(明るさ)を崇拝したことに由来するという説が有力の一つとされる。ただし洪武帝自身は白蓮教を後に弾圧しており、建国後の国号の意味づけは仏教の日月の光明説など複数が並立している。
4鄭和の艦隊はコロンブスの船団の数十倍の規模だったとされる
1405年に始まった鄭和の南海遠征では、最大で200隻以上・乗組員2万人を超える大艦隊が組まれたとされる(史料により諸説あり)。1492年のコロンブスの艦隊が3隻・乗組員90人程度だったことと比較すると、その規模の差は際立っている。しかし明は積極的な海外植民地経営には向かわず、永楽帝の死後は海禁政策が強化された。

ここが出る博士のワンポイント
建国年は1368年。語呂は「いざ見ろや(1368)明の建国」。
建国者は朱元璋(洪武帝)、都は南京(後に永楽帝が北京へ遷都)。
元(モンゴル王朝)を北方へ退けた漢民族王朝の復興であることを押さえる。
宰相制度を廃止して皇帝独裁を確立した点は頻出。廃止の契機は胡惟庸事件(1380年)。
里甲制(農村管理・徴税)と科挙(試験による官僚登用)は明代の重要制度として確認しておく。
語呂クイズ
「いざ見ろや(1368)明の建国」= 明が建国されるは西暦何年?
- Q. 明はどのようにして建国されましたか?
- A. 朱元璋が紅巾の乱に加わって勢力を拡大し、ライバルの反乱勢力を制圧したうえで1368年に南京で即位しました。同年、元の皇帝は首都・大都(現在の北京)を明軍に占領されてモンゴル高原に撤退し、明が中国を支配しました。
- Q. 朱元璋はどんな人物ですか?
- A. 安徽省出身の貧農の出で、幼少期に家族を疫病・飢饉で失い、物乞いや寺の雑役僧として生き延びました。紅巾軍に加わって頭角を現し、皇帝にまで上り詰めた中国史上でも特異な立身出世の人物です。建国後は中央集権化を徹底し、功臣の粛清も多数行いました。
- Q. 宰相制度を廃止した理由は何ですか?
- A. 宰相の胡惟庸が謀反を企てたとして処刑された(1380年)のを機に、洪武帝が宰相制度そのものを廃止しました。皇帝の権力を脅かしうる中間的な権力者を制度ごと排除し、皇帝独裁を完成させることが目的だったとされます。
- Q. 里甲制とはどのような制度ですか?
- A. 農村を110戸単位の「里」に編成し、納税・労役・治安維持を村の有力者が連帯して担う仕組みです。現代でいえば「村ごとの相互管理・徴税の仕組み」にあたります。農民を土地に結びつけ、国家が直接把握・管理するための制度でした。
- Q. 明は元とどう違いますか?
- A. 元はモンゴル人が支配した王朝で、ユーラシア規模の帝国でした。明は漢民族の朱元璋が建てた王朝で、中国本土の統治を中心とし、儒教的な官僚制度や科挙を整備した中央集権国家です。民族的・制度的に大きく異なります。
- Q. 永楽帝と洪武帝はどんな関係ですか?
- A. 永楽帝(朱棣)は洪武帝(朱元璋)の四男です。洪武帝の死後、孫(建文帝)が帝位を継ぎましたが、靖難の変と呼ばれる内乱で永楽帝が甥から帝位を奪いました。永楽帝は北京遷都や鄭和の南海遠征などを行い、明の最盛期を築いたとされます。
1368年の明の建国は、モンゴル人が支配した元(ユーラシア帝国)を北に退けて漢民族の王朝が復活した歴史的転換点です。建国者の朱元璋(洪武帝)は貧農から皇帝に上り詰めた異例の人物で、宰相廃止による皇帝独裁・里甲制・科挙整備など、後代の中国社会の骨格を作りました。「いざ見ろや(1368)明の建国」の語呂とともに、建国者・都(南京)・元を退けた点・宰相廃止による中央集権の4点を確実に押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
朱元璋の幼少期の詳細(物乞い経験など)は、明史や野史(民間記録)に基づく伝承を含み、すべてが史料で厳密に確認されているわけではないため「〜とされる」「〜とも言われる」と表記した。
宰相廃止の背景にある胡惟庸の謀反については、洪武帝の政治的意図による冤罪説も研究者の間にあるが、制度廃止の事実は確かなため史実として記述した。
鄭和の艦隊規模については史料によって諸説があり、200隻・2万人という数字は上限の推定値として「とされる(史料により諸説あり)」と注記した。