高校/戦争
1234
モンゴルが金を滅ぼす
オゴタイ=ハン(モンゴル帝国第2代皇帝)
語呂
覚え方
一二三四(1234)で金が滅ぶ
ひふみよ(1234)金の滅亡
1234年、女真族が建てた金王朝は、モンゴル帝国(オゴタイ=ハン)と南宋の南北挟撃を受け、最後の拠点・蔡州(さいしゅう)で滅亡しました。金はかつて北宋を圧迫して淮河以北の華北を支配し、百年以上にわたって中国北方に君臨した大国でした。しかしモンゴルの南下圧力に抗しきれず、都を中都(現在の北京)から開封(汴京)へ遷都したものの、最終的に蔡州に追い詰められ、最後の皇帝・哀宗は自ら命を絶ちました。南宋はモンゴルとの「滅金同盟」に参加し、金に対する百年来の積怨を晴らしましたが、その選択が後の南宋自身の滅亡(1279年)への道を開く皮肉な結末となりました。
この記事のポイント 1234年、女真族の金王朝がモンゴル帝国(オゴタイ=ハン)と南宋の挟撃を受け、蔡州で滅亡 金の最後の皇帝・哀宗は蔡州で自決し、王朝は完全に終焉を迎えた モンゴルは1214年に金の開封遷都を強い、その後も南下を続けて金を圧迫した 南宋はモンゴルと連携して金を滅ぼしたが、これが南宋自身の滅亡(1279年)への伏線となった 金の滅亡によりモンゴル帝国は中国北方を完全に掌握し、南宋攻略へと矛先を向けた
ここが面白い かつて北宋を滅ぼし、華北に君臨した女真の王朝・金。その最後の瞬間は、盟友だったはずの南宋の軍隊が城壁を破った瞬間にやってきた。
金の滅亡は突然の出来事ではありません。女真族による金王朝の誕生から北宋圧迫・支配、そしてモンゴルの台頭という長い歴史の流れの中で、徐々に追い詰められていった過程があります。その背景を順に見ていきましょう。
女真族の金王朝の誕生と北宋の滅亡 女真族は満州(現在の中国東北部)を本拠とする民族で、12世紀初頭に完顔阿骨打(わんやんあくた)が1115年に金を建国しました。金は当初、遼(契丹)を北宋と挟撃して1125年に遼を滅ぼし、さらに北宋にも侵攻して1127年の靖康の変で首都・開封を占領し、皇帝二人(徽宗・欽宗)を連行しました。これにより北宋は滅亡し、江南に逃れた宋(南宋)との対立が続くことになります。金は淮河を境に南宋と対峙しながら、100年以上にわたって華北に君臨しました。
モンゴルの台頭とチンギス=ハンの侵攻 13世紀初頭、チンギス=ハンがモンゴル高原を統一し(1206年)、強力な遊牧騎馬軍団を率いて周辺諸国への侵攻を開始しました。金への本格的な侵攻は1211年から始まり、モンゴル軍は燕雲十六州(万里の長城周辺の要衝)を次々と制圧。金はモンゴルの圧迫を避けるため1214年に首都を南の開封(汴京)へ遷都し、翌1215年にはモンゴルが金の旧都・中都(現在の北京)を陥落させました。それでもモンゴルの圧迫は止まりませんでした。
オゴタイ=ハンの即位と金への総攻撃 チンギス=ハンは1227年に西夏遠征中に死去し、三男のオゴタイが第2代皇帝(大ハン)に即位しました(1229年)。オゴタイは金滅亡を最優先課題と位置付け、1231年から大規模な総攻撃を開始しました。モンゴル軍は多方面から金を攻め、南宋との連携(滅金のための軍事協力)も実現させ、金は開封も失って蔡州に逃れました。
蔡州の戦いと金の最後 1233年末から1234年初頭にかけて、モンゴル・南宋連合軍は蔡州(現在の河南省汝南)を包囲しました。物資は尽き、援軍も来ない中で哀宗は皇位を末帝(完顔承麟)に譲り、自決しました。末帝も即位当日に戦死し、ここに金王朝は完全に滅亡しました。治世119年(1115〜1234年)の王朝の終幕でした。
モンゴル・南宋の南北挟撃による金の滅亡 ≒ 大国同士の同盟が中小国を挟み撃ちにする地政学の典型例 北方のモンゴルと南方の南宋が連携して金を挟撃するという構図は、後の国際関係でも繰り返される「共通の敵を持つ者の同盟」の原型といえる。
南宋の「自縄自縛」外交 ≒ 目先の利益のために潜在的な脅威と手を結んだ結果、自滅を招くケース 南宋は靖康の変の積怨を晴らすためにモンゴルと組んで金を滅ぼしたが、緩衝国としての金を失ったことで、次のモンゴルの攻撃が直接自国に向かうこととなった。これは45年後の南宋滅亡(1279年)に直結する。
女真族の王朝から漢化した政権への変容 ≒ 征服者が被征服文化に同化していくプロセス 金はもともと女真族の遊牧・狩猟文明を背景に持つ王朝だったが、華北支配を通じて急速に漢化(中国文化への同化)が進んだ。この漢化が軍事力の低下を招いたという指摘もある。
1115 金の建国 完顔阿骨打が女真族を率いて金を建国(建国年号・収国元年)。
1125 遼の滅亡 金が北宋と連携して遼(契丹)を滅ぼす。
1127 靖康の変 金が北宋の首都・開封を占領。皇帝徽宗・欽宗を連行し北宋が滅亡。南宋が江南に成立。
1141 紹興の和議 南宋(高宗)と金が和議を結ぶ。淮河を国境とし、南宋は金に臣礼をとることを認める。
1206 モンゴル帝国成立 チンギス=ハンがモンゴル高原を統一し、モンゴル帝国を建国。
1211 モンゴルの金侵攻開始 チンギス=ハンが金への本格侵攻を開始。燕雲十六州方面を次々と制圧。
1214 金が開封へ遷都 モンゴルの圧迫を受け、金が首都を中都(現在の北京)から開封(汴京)へ遷都。
1215 中都陥落 モンゴルが中都(現在の北京)を陥落させる。
1227 西夏の滅亡・チンギス死去 チンギス=ハンが西夏遠征中に死去。西夏もこの年に滅亡し、金の西方の盟友が消える。
1229 オゴタイ即位 チンギス=ハンの三男オゴタイが第2代皇帝に即位し、金滅亡を最優先課題とする。
1233 開封陥落 モンゴル軍が開封を制圧。金の哀宗は蔡州へと逃亡。
1234 金の滅亡 モンゴル・南宋連合軍に包囲された蔡州で哀宗が自決し、金王朝が滅亡(治世119年)。
◎ モンゴル帝国はオゴタイ=ハンのもとで中国北方を完全に掌握し、その後の元朝(1271年建国)樹立への基盤を整えた。また南宋は靖康の変から百年来の積怨を晴らすことに成功した。
△ 南宋にとって金の滅亡は短期的な「復讐の達成」であったが、緩衝国を失ったことでモンゴルとの国境が直接接するようになり、1279年の南宋滅亡への伏線となった。「遠交近攻」を誤ると自滅につながるという歴史的教訓として評価される。また、金滅亡後に中国北方の人口と農業生産が大きく落ち込んだことも、モンゴル支配の暗部として記録されている。
オゴタイ=ハン モンゴル帝国第2代皇帝(在位1229〜1241年) チンギス=ハンの三男。父の遺志を継いで金滅亡を最優先課題とし、1231年から総攻撃を指揮。金滅亡後はヨーロッパ遠征(バトゥのキプチャク汗国建設)も推進した。
完顔守緒(哀宗) 金の第9代(実質最後の)皇帝 在位1224〜1234年。モンゴルの圧迫で開封陥落後に蔡州へ逃れ、城の陥落直前に皇位を末帝に譲って自決した。金滅亡の直接の当事者となった悲運の皇帝。
チンギス=ハン モンゴル帝国初代皇帝 1206年にモンゴル高原を統一し、1211年から金への侵攻を開始。1227年に金を完全には滅ぼせないまま遠征中に死去したが、金への致命的打撃を与えた。
完顔承麟(末帝) 金の末代皇帝 哀宗が蔡州陥落直前に皇位を譲った最後の皇帝。即位当日に戦死したとされ、在位はわずか数時間とも伝えられる。
速不台(スブタイ) モンゴルの名将 チンギス=ハン・オゴタイ=ハンに仕えた最高位の将軍の一人。金への軍事作戦でも中心的な役割を担い、後のヨーロッパ遠征でも活躍した。
女真(じょしん) 現在の中国東北部(満州地方)を原住地とするツングース系民族。12世紀に金を建国し、後の17世紀には清王朝(満州族)を建てる。
靖康の変(せいこうのへん) 1127年、金が北宋の首都・開封を陥落させ、徽宗・欽宗の二帝を連行した事件。北宋はこれにより滅亡し、江南に南宋が成立した。
オゴタイ=ハン チンギス=ハンの三男。モンゴル帝国第2代皇帝。金滅亡・ヨーロッパ遠征など帝国の最大版図拡大を主導した。
蔡州(さいしゅう) 現在の中国河南省汝南県にあたる都市。金の最後の拠点となり、ここでの包囲戦が金滅亡の地となった。
漢化(かんか) 北方民族が中国の漢民族の文化・制度・生活様式を取り入れていく同化現象。金は華北支配を通じて急速に漢化が進んだとされる。
遠交近攻(えんこうきんこう) 遠い国と同盟を結び、近い国を攻める外交戦略。南宋がモンゴル(遠)と組んで金(近)を滅ぼしたのが典型例。しかし金という緩衝を失い、逆にモンゴルに攻め滅ぼされた。
1 金の皇帝が最後に選んだのは「自決」だった最後の拠点・蔡州を包囲されて逃げ場を失った哀宗は、自らの命で王朝を終わらせることを選んだ。皇位を末帝に譲ったのは「金の皇帝として捕虜になりたくなかったから」とも伝えられる。末帝(完顔承麟)は即位当日に戦死し、在位はわずか数時間という短命の皇帝となった。
2 南宋が「仇敵」と手を組んだ理由南宋にとって金は1127年の靖康の変で北宋を滅ぼした不倶戴天の敵であった。モンゴルとの連携には国内でも賛否があったが、百年来の積怨を晴らせるという政治的・感情的な動機が優先された。しかし後にこの選択が南宋の自滅を招いたことから、「遠交近攻」の失敗例として語り継がれる。
3 金が日本に与えた文化的影響金は宋(南宋)や高麗と並んで、日本の鎌倉〜室町時代の文化に間接的な影響を与えた。金の陶磁器技術は中国南部を通じて伝播し、また金代の絵画・書法が宋代文化と混じり合いながら東アジア文化圏に広まったとされる。
4 モンゴルは「金を最後に滅ぼした」のではなくゆっくりと圧迫したモンゴルの金への侵攻は1211年に始まり、金の滅亡まで実に23年かかった。要因としては金の強固な城郭防衛、チンギス=ハンの死、西夏・中央アジアへの同時侵攻などがあり、モンゴルにとっても金は手強い相手だった。1234年の滅亡はその長い消耗戦の末の決着だった。
5 「1234」という年号の覚えやすさ金の滅亡の年号1234年は「一二三四(ひふみよ)」と読める連番で、世界史の年号の中でも特に覚えやすい部類に入る。「1234で金が滅ぶ」は受験生の間でも定番の語呂合わせとして知られている。
ここが出る 博士のワンポイント
年号は1234年。語呂は「一二三四(ひふみよ)で金が滅ぶ」。
金を滅ぼしたのはモンゴル帝国(オゴタイ=ハン)と南宋の連合軍。
金の最後の拠点は蔡州(さいしゅう)。最後の皇帝・哀宗が自決して滅亡。
金はかつて靖康の変(1127年)で北宋を滅ぼした王朝であり、南宋はその積怨からモンゴルに協力した点が重要。
南宋が金を滅ぼした後、緩衝国を失ってモンゴルと直接接することになり、1279年の南宋自身の滅亡につながる(「遠交近攻」の失敗)という因果関係が問われやすい。
金の都の変遷:中都(現北京)→1214年に開封(汴京)へ遷都→蔡州へ逃亡。
語呂クイズ
「一二三四(1234)で金が滅ぶ」= モンゴルが金を滅ぼすは西暦何年?
1215 1234 1241
Q. 金はどんな民族の王朝ですか? A. 女真(じょしん)族が建てた王朝です。現在の中国東北部(満州地方)を出身地とするツングース系民族で、1115年に完顔阿骨打が建国しました。後の17世紀に同じ女真系(満州族)が清を建てています。
Q. なぜ南宋はモンゴルと手を組んで金を滅ぼしたのですか? A. 南宋にとって金は、1127年の靖康の変で北宋を滅ぼした「仇敵」でした。百年来の積怨を晴らすため、またモンゴルから「金を挟み撃ちにしよう」という提案を受けたため、連携を選びました。しかし金という緩衝国を失ったことで、今度はモンゴルが直接南宋に向かう事態となり、1279年の南宋滅亡への伏線となりました。
Q. 金の最後の皇帝はどうなりましたか? A. 最後の拠点・蔡州が包囲されると、哀宗は皇位を完顔承麟(末帝)に譲り、自決しました。末帝は即位当日に戦死し、在位はわずか数時間とも伝えられています。
Q. 金の都はどこにありましたか? A. もともとの都は中都(現在の北京周辺)でした。しかしモンゴルの圧迫を受け、1214年に開封(汴京)へ遷都しました。さらにモンゴルが開封を占領すると、最後の拠点として蔡州(現在の河南省汝南)に逃れ、そこで滅亡しました。
Q. 金の滅亡はモンゴル帝国の歴史でどんな意味がありますか? A. 金の滅亡により、モンゴル帝国はユーラシア大陸の東方における最大の抵抗勢力を取り除き、中国全土支配への道を開きました。この後、フビライ=ハンが元王朝を建て(1271年)、1279年に南宋も滅ぼして中国全土を統一します。
女真族の金王朝は1127年に北宋を滅ぼして華北に君臨した大国でしたが、モンゴルの台頭という時代の波には抗えず、1234年にモンゴル・南宋連合軍に蔡州で滅ぼされました。「一二三四(ひふみよ)で金が滅ぶ」という覚えやすい年号とともに、この滅亡の構造――つまり南宋がモンゴルと組んで仇敵を倒したものの、それが自らの滅亡を招くという歴史の皮肉――を合わせて押さえることが大切です。国際関係における「遠交近攻」の得失を考えるうえでも、金の滅亡は示唆に富んだ出来事です。
編集メモ(ファクト) 哀宗の自決と末帝の戦死の経緯については、史料(金史など)に細部の差異がある。本文は通説的な記述に従い、「哀宗が自決し、末帝は即位当日に戦死」という形で記述した。 南宋とモンゴルの連携の詳細(約定の内容・履行状況)については諸説あり、本文では「連携して挟撃した」という大枠の事実に基づいて記述した。 チンギス=ハンの死因(1227年)についても諸説あるが、本文では「遠征中に死去」という通説的表現を用い、詳細には踏み込まなかった。 金の治世年数「119年」は建国1115年から滅亡1234年までの計算による。 related は世界史サイト内の実在IDとして 1271-yuan-dynasty・1279-southern-song-fall を記載。存在しない場合は削除すること。