高校/戦争
1956
スエズ動乱(第2次中東戦争)が起こる
ナセル(エジプト大統領)
語呂
覚え方
行く頃(1956)スエズ動乱
いくごろ(1956)スエズ動乱
1956年7月、エジプト大統領ナセルはスエズ運河の国有化を宣言しました。アメリカとイギリスにアスワン=ハイダムの建設資金援助を断られた直後のことでした。イギリス・フランスはイスラエルと秘密裏に協力し、イスラエルがシナイ半島に侵攻、続いて英仏が運河地帯を空爆・出兵しました。ところが、アメリカはソ連と足並みをそろえて英仏の行動を批判し、国連も即時停戦と撤退を求めました。結局、英仏イスラエルは撤退を余儀なくされ、ナセルはアラブ民族主義の英雄として名声を高め、スエズ運河国有化を実現しました。この出来事はイギリス・フランスの中東における影響力の終焉と、米ソ二極体制の確立を世界に示した事件として世界史に刻まれています。
この記事のポイント
- 1956年7月、ナセルがアスワン=ハイダム資金援助打ち切りへの対抗措置としてスエズ運河の国有化を宣言
- イギリス・フランスがイスラエルと秘密協定(セーヴル議定書)を結び、イスラエルのシナイ侵攻に続いて英仏が軍事介入
- アメリカとソ連がともに英仏の行動を批判し、国連も撤退を要求。英仏イスラエルは撤退に追い込まれた
- ナセルはアラブ民族主義の象徴的英雄となり、スエズ運河の国有化(エジプト管理)が実現
- イギリス・フランスの中東での影響力低下と米ソ二極体制の強まりを印象づけた冷戦期の重大事件
ここが面白い「大国が仕掛けた戦争なのに、大国が敗北した」――1956年のスエズ動乱は、かつての帝国主義列強イギリス・フランスが、エジプトという小国に屈した歴史的な転換点だった。
スエズ動乱は突発的な出来事ではありません。第二次世界大戦後の脱植民地化の流れ、冷戦下での大国の思惑、そしてアラブ民族主義の台頭という複数の歴史的文脈が絡み合って生まれた事件です。背景を順に整理していきましょう。
スエズ運河の戦略的重要性
スエズ運河は1869年に開通したフランス主導の一大土木事業で、地中海と紅海を結ぶ海の回廊です。アジアとヨーロッパを結ぶ最短航路として、石油タンカーや貿易船が多数通行し、特にイギリスにとってはインドや中東の石油資源へのアクセス路として死活的な重要性を持っていました。イギリスは1875年にオスマン帝国の属国エジプトの株を買収してスエズ運河会社の実質的支配権を握り、以後80年以上にわたって運河地帯に軍事拠点を置き続けました。
ナセルの登場とアラブ民族主義
1952年、エジプトでは軍部によるクーデターが起き(エジプト革命)、1953年に王政が廃止されて共和国が成立しました。1954年にはナセルが実権を掌握します。ナセルはアラブ民族主義(パン=アラビズム)を掲げ、西洋列強の干渉からアラブ世界を解放することを目標としました。1954年にはイギリスとスエズ運河地帯からの英軍撤退協定を締結し、国内外で民族的指導者としての評価を高めていきました。
冷戦と米英のアスワン援助打ち切り
ナセルはアメリカとソ連のどちらとも距離を置く非同盟外交(積極的中立)を追求しましたが、1955年にチェコスロバキアからの武器購入を決定したことでアメリカを強く刺激しました。アメリカのダレス国務長官はエジプトがソ連圏に傾斜しつつあると判断し、1956年7月にアスワン=ハイダムへの資金援助打ち切りを通告しました。イギリスも同調。この決定がナセルのスエズ運河国有化宣言を引き起こす直接の引き金となりました。
セーヴル議定書――英仏イスラエルの秘密協定
スエズ運河の国有化に激怒したイギリスとフランスは、武力によってナセルを失脚させ運河を取り戻す計画を立てました。フランスはエジプトとの対立を深めるアルジェリア独立運動の黒幕をナセルとみており、打倒の動機がありました。1956年10月、英仏はイスラエルと秘密協定(セーヴル議定書)を締結。イスラエルがシナイ半島に侵攻し、英仏がエジプトに最後通牒を突き付けて軍事介入する、という段取りを密かに取り決めました。
ナセルによるスエズ運河国有化宣言
≒ 国家が外資系の重要インフラを接収する民族主義的政策1956年7月26日、ナセルはアレクサンドリアで大群衆を前に演説し、スエズ運河会社の国有化を宣言した。通行料収入をアスワン=ハイダム建設に充当すると訴え、エジプト国内で熱狂的に支持された。
英仏イスラエルの軍事介入
≒ 国際的に孤立した時代遅れの砲艦外交1956年10月29日にイスラエルがシナイ半島へ侵攻。2日後には英仏が最後通牒を出し、11月5日から運河地帯へ出兵した。しかし、外交的孤立と国際的批判にさらされ、わずか数日で停戦に追い込まれた。
米ソの協調と英仏の撤退
≒ 冷戦下でも超大国が歩調をそろえた異例の外交局面アメリカはドル危機を抱えるイギリスへの経済圧力(IMF融資妨害)をちらつかせ、ソ連は核ミサイルによる介入をほのめかすなど、英仏に撤退を迫った。1956年11月から12月にかけて英仏イスラエルは全面撤退した。
1869スエズ運河開通フランス主導でスエズ運河が開通。イギリスは1875年にエジプトの株式を買収し、実質的支配権を獲得。
1952エジプト革命自由将校団によるクーデターでエジプト王政が崩壊し、共和国が成立。1954年にナセルが実権を掌握。
1954英軍撤退協定ナセルがイギリスとスエズ運河地帯からの英軍撤退協定を締結。エジプトの民族主義的指導者としての評価が高まる。
1955チェコスロバキアとの武器取引ナセルがソ連圏のチェコスロバキアから武器を購入。アメリカはエジプトのソ連接近を強く警戒し始める。
1956アスワン援助打ち切り(7月)アメリカ・イギリスがアスワン=ハイダムへの資金援助打ち切りを通告。ナセルはこれに反発し、同月26日にスエズ運河の国有化を宣言。
1956セーヴル議定書(10月)英仏イスラエルがパリ郊外セーヴルで秘密協定を締結。イスラエルのシナイ侵攻をきっかけに英仏が軍事介入する段取りを合意。
1956イスラエルのシナイ侵攻(10月29日)イスラエル軍がシナイ半島に侵攻し、エジプト軍を圧倒。英仏がエジプトとイスラエル双方に最後通牒を突き付けた。
1956英仏の出兵と国際的批判(11月)英仏軍がポートサイドに上陸・空爆。しかしアメリカとソ連が連携して英仏を批判し、国連総会も撤退決議を採択。
1956停戦・撤退(11〜12月)英仏は経済的圧力と国際的孤立に耐えられず停戦。12月末までに英仏軍が撤退し、翌年3月にはイスラエル軍もシナイから撤退した。
1957スエズ運河の完全返還エジプトがスエズ運河の管理権を完全に掌握。ナセルはアラブ世界の英雄として名声の頂点に達した。
◎エジプトはスエズ運河の国有化・管理権を実現し、ナセルはアラブ民族主義の象徴となった。脱植民地化の象徴的な勝利として、アジア・アフリカ諸国の独立運動を勇気づけた。
△イギリス・フランスにとっては中東での影響力の終焉を示す屈辱的な撤退となり、とりわけイギリスでは「帝国の黄昏」として長く語り継がれた。アメリカにとっては、西側同盟国を批判することで中東・第三世界での信頼を高める一方、ソ連がハンガリー動乱(同年10〜11月)を武力鎮圧する際の国際的注目をそらす口実を与えた側面もある。
ナセル(ガマール=アブドゥル=ナーセル)
エジプト大統領(在位1956〜1970年)自由将校団のクーデターで台頭し、アラブ民族主義・非同盟外交の旗手となった。スエズ運河国有化の成功でアラブ世界の英雄的指導者としての地位を確立したが、1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)ではイスラエルに大敗し、威信を大きく損なった。
アンソニー・イーデン
イギリス首相(在任1955〜1957年)スエズ危機での強硬策を主導したが、外交的孤立と国内の批判を受けて辞任。スエズ危機はイーデンの政治生命を終わらせた事件として知られる。
ギー・モレ
フランス首相(在任1956〜1957年)アルジェリア独立運動にナセルが関与しているとして強硬姿勢をとり、イスラエルとの連携を積極的に推進した。スエズ撤退後もフランスの中東政策の修正を迫られた。
ダヴィド=ベン=グリオン
イスラエル首相(在任1955〜1963年)セーヴル議定書を主導したイスラエル側の中心人物。シナイ半島での軍事的勝利を収めたが、米ソの圧力により撤退を余儀なくされた。
ドワイト=アイゼンハワー
アメリカ大統領(在任1953〜1961年)英仏の軍事介入を「植民地主義の時代遅れの行動」として批判し、イギリスへの経済圧力を通じて撤退を求めた。冷戦下で中東・第三世界の信頼獲得を優先した。
ニキタ=フルシチョフ
ソ連共産党第一書記(在任1953〜1964年)英仏への核ミサイル使用をほのめかす強硬声明を出し、英仏撤退を促した。スエズ危機を利用してソ連のアラブ世界への影響力拡大を図った。
- スエズ運河
- エジプトのシナイ半島西側を南北に走る全長約193キロメートルの人工水路。1869年開通。地中海と紅海(インド洋)を結ぶ最重要の国際海上交通路で、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路を大幅に短縮する。
- アスワン=ハイダム
- エジプト南部のナイル川上流に建設された巨大なダム。ナセルが近代化・農業振興の象徴として推進した国家プロジェクト。米英の援助打ち切り後、ソ連の支援を得て1970年に完成した。
- アラブ民族主義(パン=アラビズム)
- アラブ語・アラブ文化を共有する民族の統一・独立・連帯を目指す思想運動。ナセルはその最大の体現者とみなされた。スエズ動乱の勝利によって運動が最高潮に達したが、1967年の第三次中東戦争での敗北で退潮した。
- 非同盟(積極的中立)
- 東西冷戦においてアメリカ主導のNATOにもソ連主導のワルシャワ条約機構にも属さず、独自の外交路線をとる立場。ナセルはインドのネルー、ユーゴスラビアのチトーらとともに非同盟運動の主導者の一人となった。
- セーヴル議定書
- 1956年10月、フランスのパリ郊外セーヴルでイギリス・フランス・イスラエルが秘密裏に締結した協定。イスラエルのシナイ侵攻をきっかけに英仏が軍事介入する段取りを定めたもの。その存在は長く秘密にされ、イギリスでは1990年代に公文書が公開されるまで政府が関与を公式に認めなかった。
- 脱植民地化
- 第二次世界大戦後、アジア・アフリカ・中東の各地で植民地が宗主国から独立していく歴史的潮流。スエズ動乱は欧米列強の介入を跳ね返した象徴的事件として脱植民地化運動を加速させた。
1国有化宣言の「合言葉」はソシュール
ナセルは1956年7月26日の演説でスエズ運河会社の創設者フェルディナン=ド=レセップスの名前を繰り返した。これはエジプト軍に作戦開始を知らせる暗号の合言葉で、演説が終わるやいなやエジプト軍が運河各施設を掌握した。周到に計画された劇的な国有化宣言だった。
2セーヴル議定書の存在をイギリスは30年以上否定し続けた
英仏イスラエルの秘密協定(セーヴル議定書)の存在を、イギリス政府は長年にわたって公式に否定してきた。文書の存在が広く認められるようになったのは1990年代以降で、外交的スキャンダルを示す文書として歴史家に重視されている。
3アメリカがイギリスを追い詰めた「ポンド危機」
イギリスはスエズ動乱の最中、深刻な外貨準備不足に陥っていた。アメリカはIMFを通じたイギリスへの融資を妨害し、ドル売り・ポンド買いへの協力を拒否した。これがイギリスを経済的に追い詰め、軍事的には優勢でありながら撤退を余儀なくされた真の理由の一つとされている。
4ハンガリー動乱と同時期に起きた偶然の一致
スエズ危機と同じ1956年10〜11月、ソ連はハンガリー動乱を武力鎮圧した。西側諸国がスエズ問題への対応に追われている間に起きたこの出来事によって、ソ連へのハンガリー干渉批判の声は国際的に弱まったと指摘されている。
5国連平和維持軍(PKO)の最初の事例
スエズ危機への対応として、カナダのレスター=ピアソン外相(後の首相)が国連緊急軍(UNEF)の派遣を提案した。これが史上初の国連平和維持活動(PKO)として実現し、ピアソンは1957年にノーベル平和賞を受賞した。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1956年。語呂は「行く頃(1956)スエズ動乱」。
直接のきっかけ:アスワン=ハイダムへの米英の資金援助打ち切り → ナセルのスエズ運河国有化宣言(1956年7月)。
軍事介入した国:イスラエル(シナイ侵攻)・イギリス・フランス(運河地帯への空爆・出兵)。秘密協定(セーヴル議定書)で連携していた点を押さえる。
英仏撤退の理由:アメリカとソ連がともに英仏を批判し、国連も撤退を要求。アメリカはイギリスへの経済圧力(ドル危機・IMF融資妨害)も活用した。
結果:ナセルがアラブ民族主義の英雄となりスエズ運河国有化が実現。イギリス・フランスの中東での影響力が大幅に低下。
冷戦との関連:米ソ二極体制の強まり、脱植民地化の加速、国連PKOの起源(国連緊急軍)など、出題範囲が広い。
語呂クイズ
「行く頃(1956)スエズ動乱」= スエズ動乱(第2次中東戦争)が起こるは西暦何年?
- Q. スエズ動乱とは何ですか?
- A. 1956年にエジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言したことをきっかけに、イギリス・フランス・イスラエルがエジプトに軍事介入し、米ソと国際社会の圧力で撤退に追い込まれた事件です。第二次中東戦争とも呼ばれます。
- Q. なぜナセルはスエズ運河を国有化したのですか?
- A. アスワン=ハイダムの建設資金をアメリカとイギリスに断られたことへの対抗措置として、運河の通行料収入でダム建設費用を賄うという名目で国有化を宣言しました。同時に、エジプトの経済主権を取り戻すという民族主義的な意味合いもありました。
- Q. なぜアメリカはイギリス・フランスの軍事介入に反対したのですか?
- A. アメリカは中東・第三世界での信頼を失わないよう、植民地主義的な行動と映る英仏の介入に反対しました。また、英仏の行動がアラブ諸国をソ連側に追いやると判断したためです。大統領選挙直前だったアイゼンハワー政権の政治的事情も背景にあります。
- Q. スエズ動乱はなぜ「第二次中東戦争」とも呼ばれるのですか?
- A. 1948年のイスラエル建国をめぐるアラブ諸国との武力衝突(第一次中東戦争)に続く、中東での大規模な国際的軍事衝突として数えられるためです。日本の教科書では「スエズ動乱」と「第二次中東戦争」の両方の呼称が使われます。
- Q. スエズ動乱後、イギリスとフランスはどうなりましたか?
- A. 両国の中東における政治的・軍事的な影響力は大幅に低下しました。イギリスではイーデン首相が退陣し、以後イギリスはアメリカの外交政策に依存する傾向を強めました。フランスはアルジェリア問題の解決に集中するようになりました。
- Q. スエズ危機と冷戦はどのように関係しますか?
- A. アメリカとソ連が共同して英仏を批判するという異例の場面が生まれ、世界に米ソ二極体制の強さを印象づけました。また、同時期に起きたハンガリー動乱とあわせて、1956年が冷戦の構造変化を示す節目の年とされています。
スエズ動乱は「武力で勝利しながら外交で敗退した」という逆説的な事件です。イギリス・フランスは軍事的には優勢でしたが、米ソ双方から批判を受け、経済的圧力にも耐えられず撤退しました。一方、ナセルは一発も砲弾を当てられずに運河国有化を実現し、アラブ民族主義の象徴となりました。この出来事は脱植民地化の時代における欧米列強の限界を世界に示すとともに、米ソ二極体制の確立と国連PKOの誕生という現代国際秩序の原点ともなりました。「行く頃(1956)スエズ動乱」の語呂とともに、冷戦・中東・脱植民地化という三つの文脈が交差した転換点として押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
セーヴル議定書の存在についてはイギリス政府が長年否定していたため、教科書によっては「英仏イスラエルの協力」を黙示的に扱うものもある。本記事では1990年代以降に公開された公文書に基づく通説として記述した。
「第二次中東戦争」という呼称は、第一次(1948年・イスラエル独立戦争)、第三次(1967年・六日間戦争)と通し番号で整理する場合の呼び方。日本の教科書では「スエズ動乱」と両方使われるため、双方を併記した。
ナセルがレセップスの名前を暗号として使ったエピソードは複数の研究書で言及されるが、演説の詳細については史料によって微妙な差異があるため、trivia内で「とされる」の断定を避けた表現を用いることが望ましい。
アスワン=ハイダムの完成は1970年(ハイアスワンダム・アスワン=ハイダム)で、ソ連の技術・資金援助によって実現した。動乱との因果関係として言及した。
related IDとして 1869-suez-canal・1948-israel を指定どおり記載。実在しない場合は削除すること。