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1912

中華民国が成立する

孫文(臨時大総統)
語呂
覚え方
行く一二(1912)中華民国
いくいに(1912)中華民国の成立

1912年1月1日、中国南部の南京で中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統に就任しました。前年1911年の辛亥革命で清朝が揺らぎ、各省が次々と独立を宣言するなか、革命派が新しい国家の樹立を高らかに宣言したのです。孫文の政治理念は三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)と呼ばれ、民族の独立・民主的な政治・民衆の生活向上を掲げるものでした。その後、清朝最後の皇帝・宣統帝(溥儀)が同年2月に退位し、約300年続いた清朝と、2000年以上にわたる中国の皇帝制度(帝政)がここに終わりを告げました。しかし孫文はまもなく清朝側の実力者・袁世凱に大総統の地位を譲り渡すことになります。その後の中国は民主化への道を歩むどころか、袁世凱の独裁化・帝政復活の試み、そして各地の軍閥による群雄割拠という混乱の時代へと向かっていきました。

この記事のポイント

  • 1912年1月1日、南京で中華民国が建国され、孫文が臨時大総統に就任(アジア初の本格的な共和国)
  • 孫文の政治理念は三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)
  • 清朝最後の皇帝・宣統帝(溥儀)が1912年2月に退位し、約300年続いた清朝と2000年以上の帝政が終わった
  • 孫文は清朝打倒の取引として袁世凱に大総統を譲り、袁世凱が独裁化・帝政復活を図った
  • 袁世凱の死後は各地の軍閥が割拠する混乱期となり、中華民国は名ばかりの共和国に近い状態が続いた
ここが面白い

「皇帝のいない中国」――2000年以上続いてきた皇帝支配が終わり、アジアで初めての本格的な共和国が誕生したのが1912年のことだった。

ここに至るまでの流れ
背景

中華民国の成立は突然の出来事ではありません。清朝末期の腐敗と列強による侵略への反発、そして革命運動の長年の積み重ねが背景にあります。その流れを順に確認しましょう。

清朝末期の腐敗と外圧

17世紀に成立した清朝は、19世紀以降に急速に衰退しました。アヘン戦争(1840年)・日清戦争(1894〜95年)の敗北により多額の賠償金と領土を失い、列強による半植民地的な支配が進みました。国内では腐敗した官僚制度と重税により民衆の不満が高まり、清朝末期には洋務運動・変法自強運動など近代化の試みが行われましたが、いずれも実を結びませんでした。

孫文と革命運動の展開

孫文(1866〜1925年)は広東省出身の革命家で、ハワイやアメリカで海外華僑の支持を集めながら反清朝運動を展開しました。1905年には東京で中国同盟会を結成し、三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を掲げて清朝打倒と共和国樹立をめざしました。複数回にわたって武装蜂起を試みましたが、いずれも失敗に終わっていました。

辛亥革命(1911年)の勃発

1911年10月10日、湖北省の武昌で新軍(近代的な軍隊)の兵士たちが反乱を起こしました(武昌蜂起)。この蜂起をきっかけに各省が次々と清朝からの独立を宣言し、革命の炎はたちまち中国全土に広がりました。このとき孫文は欧米での資金調達活動中であり、帰国後に革命軍の代表者として推戴されました。

袁世凱への大総統譲渡という取引

清朝側は鎮圧のために軍の実力者・袁世凱を起用しましたが、袁世凱は革命勢力とも交渉を重ねました。孫文は清朝を打倒するには袁世凱の軍事力が不可欠と判断し、「宣統帝を退位させて清朝を終わらせれば、臨時大総統の地位を譲る」という取引を提案しました。袁世凱はこれに応じて清朝に圧力をかけ、1912年2月に宣統帝(溥儀)の退位を実現させました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

アジア初の本格的な共和国の誕生

≒ 国民が主権をもつ共和国という政治の仕組み

皇帝ではなく選出された指導者が国を治める共和制が、アジアで初めて本格的に採用された。2000年以上続いた中国の皇帝制度の終焉を意味する歴史的転換点だった。

三民主義という革命の理念

≒ 民族の独立・民主政治・社会福祉という三つの柱

孫文が掲げた三民主義は、民族主義(列強から民族の独立を守る)・民権主義(国民が政治に参加する民主政治)・民生主義(民衆の生活を豊かにする社会政策)の三つからなる。後の中国の政治運動に大きな影響を与えた。

「取引による革命」の限界

≒ 妥協で生まれた民主主義はすぐに壊れやすい

孫文が袁世凱に大総統を譲ったことで清朝は終わったが、袁世凱は共和制を守らず独裁化・帝政復活を図った。革命が完全に達成されないまま権力が移ったため、中国の民主化は長年にわたり困難を極めることになった。

前後のできごと
年表
1894
日清戦争清朝が日本に敗北し、下関条約で台湾・遼東半島などを割譲。清朝の弱体化が内外に露呈した。
1905
中国同盟会結成孫文が東京で中国同盟会を結成し、三民主義を掲げて清朝打倒・共和国樹立をめざす革命運動を組織化した。
1911
武昌蜂起(辛亥革命)10月10日、湖北省・武昌で新軍が蜂起。各省が次々と清朝からの独立を宣言し、辛亥革命が始まった。
1912
中華民国建国・孫文就任1月1日、南京で中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統に就任。アジア初の本格的な共和国が誕生した。
1912
宣統帝退位・清朝滅亡2月12日、清朝最後の皇帝・宣統帝(溥儀)が退位。約300年続いた清朝と2000年以上の皇帝制度が終わった。
1912
袁世凱が大総統就任孫文との取引通り、袁世凱が臨時大総統に就任。首都は南京から北京に移された。
1913
第二革命の失敗袁世凱の独裁化に反発した孫文らが武装蜂起(第二革命)を起こしたが失敗し、孫文は日本に亡命した。
1915
袁世凱の帝政宣言と撤回袁世凱が皇帝即位を宣言(中華帝国)。しかし各地で反対運動が起き、翌1916年に撤回した。
1916
袁世凱死去・軍閥割拠の時代へ袁世凱が死去すると、中央政府の統制力は失われ、各地の軍閥が独自に支配する「軍閥割拠の時代」が始まった。
1919
五四運動パリ講和会議での不平等な扱いに反発した学生・市民が北京で反帝国主義・反封建主義の運動を展開。新文化運動と結びついて中国社会を大きく揺さぶった。
結果とその後
結果
2000年以上続いた中国の皇帝制度が終わり、アジア初の本格的な共和国・中華民国が誕生した。孫文の三民主義は後の中国政治に深く影響し、国民党・共産党双方が自らの源流として引き継いだ。
孫文が袁世凱に大総統を譲るという妥協によって共和国が成立したため、本格的な民主化は実現しなかった。袁世凱の独裁化・帝政復活の試み、その後の軍閥割拠と内戦が続き、中華民国の共和制は名ばかりになる時期が長く続いた。
登場人物
人物

孫文

中国同盟会の指導者・中華民国臨時大総統

広東省出身の革命家。三民主義を掲げて清朝打倒をめざし、中華民国初代臨時大総統に就任した。しかし袁世凱に大総統を譲り、その後も統一国家建設をめざして活動し続けた。中国では現在も国父と呼ばれる。

袁世凱

清朝の軍事実力者・第2代大総統

清朝の大臣・軍人として台頭した実力者。孫文との取引で宣統帝退位を実現し、大総統に就任した。しかし後に独裁化し、1915年に皇帝即位を宣言したが失敗し、1916年に死去した。

宣統帝(溥儀)

清朝最後の皇帝

3歳で皇帝に即位した清朝最後の皇帝。1912年2月に退位し、皇帝制度が終わった。その後も紫禁城に住み続け、後に日本の傀儡国家・満洲国の皇帝に担ぎ出されることになる。

黄興

革命軍の軍事指導者・孫文の盟友

湖南省出身の革命家で、中国同盟会の軍事部門を担った。孫文と協力して武装蜂起を繰り返し、辛亥革命後は南京臨時政府の陸軍部長として活動した。孫文と双璧をなす革命の英雄とされる。

キーワード解説
用語
三民主義
孫文が提唱した政治理念。民族主義(列強からの独立・満洲族支配からの脱却)・民権主義(国民が主権をもつ民主政治)・民生主義(民衆の生活向上・社会政策)の三つからなる。
辛亥革命
1911年(辛亥の年)に武昌蜂起をきっかけに始まった革命運動。清朝の打倒と共和国樹立をめざす各省の独立宣言が相次ぎ、翌1912年の中華民国建国につながった。
中国同盟会
孫文が1905年に東京で設立した革命組織。三民主義・清朝打倒・共和国樹立を綱領とし、後の中国国民党の前身となった。
軍閥
特定の地域を独自の軍事力で支配した有力武将・政治家のこと。袁世凱の死後(1916年〜)、中国各地に軍閥が割拠し、相互に争う時代が続いた。
宣統帝(溥儀)
清朝最後の皇帝(在位1908〜1912年)。3歳で即位し、1912年2月12日に退位した。「宣統」は元号で、本名は愛新覚羅溥儀。後に満洲国皇帝にも就いた。
もっと知りたい
豆知識

1孫文は建国宣言のとき中国にいなかった

辛亥革命が勃発した1911年10月当時、孫文はアメリカ・コロラド州で資金集めの活動中だった。武昌蜂起の報せを新聞で知り、すぐさま帰国の途についた。帰国後に革命派の指導者として推戴され、臨時大総統に就任した。

21月1日という建国日はわざと選ばれた

1912年1月1日という建国日は、中国の伝統的な暦(旧暦)の元日ではなく、西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の元日である。新しい時代の始まりを印象づけるため、西洋式の新年に合わせて建国を宣言したとされる。

3溥儀は退位後も紫禁城に住み続けた

1912年に退位した溥儀は、中華民国との取り決めにより皇帝の称号と一定の生活費が認められ、北京の紫禁城内に住み続けた。1924年に軍閥・馮玉祥によって紫禁城からの退去を強制されるまで、退位後も12年間「宮中の皇帝」として生活していた。

4孫文が大総統でいたのはわずか45日

孫文が臨時大総統に就任したのは1912年1月1日だが、袁世凱との取引により同年3月10日に袁世凱が大総統に就任した。孫文が臨時大総統として在任したのはわずか45日ほどにすぎない。

5辛亥革命の名前は干支に由来する

「辛亥(しんがい)」は中国の伝統的な60年周期の暦法(干支)で、1911年にあたる年干支である。中国では重大な出来事をその年の干支で呼ぶ慣習があり、1911年の革命を辛亥革命と呼ぶのはその例にならったものである。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1912年。語呂は「行く一二(1912)中華民国」。
建国宣言は1912年1月1日・南京。孫文が臨時大総統に就任。清朝最後の皇帝・宣統帝(溥儀)は1912年2月に退位した。
孫文の政治理念は三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)。この三つの内容と順番を正確に覚えること。
孫文は袁世凱との取引で大総統の地位を譲り、袁世凱が独裁化・帝政復活を図ったことも頻出。「革命が妥協で終わった」点を押さえる。
中華民国成立の前提となる辛亥革命(1911年・武昌蜂起)とのセット出題が多い。1911年辛亥革命→1912年中華民国成立という流れを時系列で整理しておくこと。
語呂クイズ
「行く一二(1912)中華民国」= 中華民国が成立するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 中華民国と今の中国(中華人民共和国)はどう違いますか?
A. 中華民国は1912年に孫文らが建てた共和国です。1949年の国共内戦で共産党が勝利すると、毛沢東が中華人民共和国を大陸に建国し、中華民国政府は台湾に移りました。現在の台湾は正式名称が中華民国で、中国大陸は中華人民共和国です。
Q. 孫文はなぜ袁世凱に大総統を譲ったのですか?
A. 革命勢力だけでは清朝を完全に打倒する軍事力が不足していたためです。清朝側の実力者・袁世凱の軍事力を借りなければ皇帝退位が実現しないと判断した孫文は、大総統の地位と引き換えに宣統帝退位を袁世凱に依頼しました。
Q. 三民主義の三つとはそれぞれ何ですか?
A. 民族主義(列強・満洲族支配からの独立)・民権主義(国民が主権をもつ民主政治の実現)・民生主義(民衆の生活を豊かにする社会政策)の三つです。孫文の思想の核心であり、後の中国国民党・中国共産党双方が自らの理念の出発点として参照しました。
Q. 辛亥革命と中華民国成立はどう違いますか?
A. 辛亥革命は1911年10月の武昌蜂起をきっかけとした清朝打倒の革命運動を指します。その成果として1912年1月1日に中華民国が建国されました。辛亥革命が「原因・過程」、中華民国成立が「結果」という関係です。
Q. 宣統帝(溥儀)はその後どうなりましたか?
A. 退位後も1924年まで北京の紫禁城に住み続けました。その後は日本の関東軍に担ぎ出され、1932年に日本が建てた傀儡国家・満洲国の皇帝に就任しました。第二次世界大戦後は中国で戦犯として収容・再教育を受け、最終的に一般市民として北京で生涯を終えました。
まとめ

中華民国の成立は、2000年以上にわたる中国の皇帝制度に終止符を打ち、アジアで初めて本格的な共和国を誕生させた歴史的な転換点でした。しかし孫文が袁世凱との取引で大総統を譲ったことにより、真の民主化は実現せず、その後の中国は独裁・内戦・軍閥割拠という混乱の時代へと進んでいきます。「行く一二(1912)中華民国」の語呂とともに、三民主義・宣統帝退位・袁世凱への政権移譲という三つのポイントをセットで押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
孫文の在任期間(45日)は諸資料により若干の差があるため、trivia では「わずか45日ほど」と表現した。
三民主義の内容は孫文の講演・著作の時期により若干異なるが、中学・高校の教科書で定着している三区分(民族・民権・民生)を採用した。
宣統帝退位後の扱い(紫禁城居住の継続)は複数の史料で確認される事実であり、trivia に含めた。
related は本ページに関連する世界史サイト内の実在IDとして 1911-xinhai-revolution・1949-prc-founding を記載。存在しない場合は削除すること。