高校/社会
1494
トルデシリャス条約が結ばれる
スペイン・ポルトガル両国(フェルナンド2世・イサベル1世/ジョアン2世)
語呂
覚え方
意欲、駆使(1494)世界分割
いよくし(1494)トルデシリャス条約
1494年、スペインとポルトガルはトルデシリャスで条約を締結し、大西洋に南北に走る一本の線(西経約46度)を境に、西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力圏と定めました。前年1493年に教皇アレクサンデル6世が定めた「教皇子午線」をポルトガルが不満として交渉を求め、境界線を西にずらす形で合意したものです。この取り決めによって、南アメリカでも境界線の東側にはみ出したブラジルはポルトガル領となり、それ以外の新大陸はスペイン領となりました。ブラジルだけが南アメリカでポルトガル語を公用語とする理由は、この条約にさかのぼります。地球全体を二か国で分割するという大胆な発想は大航海時代の自信と傲慢さを象徴しており、後の植民地支配の原型ともなりました。
この記事のポイント
- 1494年、スペインとポルトガルがトルデシリャスで条約に調印し、世界の海と陸を二分する境界線を設けた
- 境界線は西経約46度付近で、西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力圏と定めた
- 前年1493年に教皇アレクサンデル6世が示した教皇子午線をポルトガルの要求で西にずらして合意した
- 境界線の東側にかかるブラジルはポルトガル領となり、南アメリカで唯一ポルトガル語圏となった理由となる
- 1529年にはサラゴサ条約でアジア側の境界も定められ、世界規模の分割体制が完成した
ここが面白い「地球をふたつに分けよう」――コロンブスの新大陸到達からわずか2年後、スペインとポルトガルの2か国が世界の海を丸ごと分け合う前代未聞の条約を結んだ。
トルデシリャス条約は突然生まれた取り決めではありません。ポルトガルによる大西洋の長年の開拓と、スペインによる新大陸到達という二つの出来事が衝突した結果として生まれた条約です。その背景を順に見ていきましょう。
ポルトガルの先行する海洋進出
15世紀、ポルトガルはエンリケ航海王子の推進のもとアフリカ西岸を南下する航路を開拓し、1488年にはバルトロメウ・ディアスが喜望峰を回航しました。アフリカ南端を経由してインドへ至るルートを独占的に利用することがポルトガルの悲願であり、大西洋の航行権はポルトガルのものという意識が強くありました。1479年に結ばれたアルカソーバス条約でも、アフリカ方面の貿易権はポルトガルに帰属することが認められていました。
コロンブスの到達と教皇子午線(1492〜1493年)
1492年、コロンブスはスペインの支援を受けて大西洋を西に横断し、カリブ海の島々に到達しました。スペインは教皇アレクサンデル6世(スペイン出身のロドリゴ・ボルジア)に働きかけ、1493年に「インテル・カエテラ」と呼ばれる教皇勅書によって分界線が設けられました。この教皇子午線はカーボベルデ諸島の西約100リーグ(約560キロメートル)の位置に引かれ、西をスペイン領、東をポルトガル領としました。ポルトガルはこの線がスペインに有利すぎると強く反発しました。
交渉と条約の成立(1494年)
ポルトガル王ジョアン2世はスペインのフェルナンド2世・イサベル1世と外交交渉を行い、境界線をさらに西にずらすことで合意しました。1494年6月7日、スペインのカスティーリャ王国のトルデシリャスで条約が調印されました。境界線はカーボベルデ諸島の西約370リーグ(現在の換算で西経約46度)の位置に移され、これにより境界線の東側にはみ出す南アメリカの一部(現在のブラジル)がポルトガルの勢力圏に含まれることになりました。
ブラジルの発見とポルトガル領の確定
1500年、ポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルが率いる艦隊がアフリカへの途中に大西洋を西に流され、南アメリカの東端(現在のブラジル北東部)に漂着しました。この地がトルデシリャス条約の境界線の東側にあったため、ポルトガルは正当な権利としてブラジルを領有することができました。以後、ブラジルはポルトガルの植民地となり、ポルトガル語と文化が根付いて現在に至ります。
世界を縦に二分する境界線の設定
≒ 国際条約で特定の地域の「権利範囲」を事前に割り当てる発想の原型西経約46度付近の南北に走る線を境に、西半球をスペイン、東半球(アフリカ・アジアへの航路)をポルトガルの勢力圏と定めた。当時まだ存在さえ確認されていない土地を含めて将来の権利を分割した。
ブラジルのポルトガル語圏化の起点
≒ なぜ南アメリカでブラジルだけポルトガル語なのかの答え条約の境界線がブラジルの東端部をポルトガル圏に割り当てたことで、その後の植民地化においてポルトガル語・文化が定着し、南アメリカで唯一のポルトガル語公用国となった。
教皇の仲裁による国際秩序の形成
≒ 国際機関による紛争調停の初期形態当時のヨーロッパでは教皇が国際的な権威として機能しており、教皇勅書による分界線設定が両国の合意の出発点となった。ただし条約自体はスペイン・ポルトガルの二国間交渉で修正された。
1415セウタ攻略ポルトガルが北アフリカのセウタを攻略し、本格的な海洋進出を開始。
1479アルカソーバス条約スペイン(カスティーリャ)とポルトガルがアルカソーバスで条約を結び、アフリカ方面の貿易権をポルトガルに帰属と確認。
1488喜望峰回航ポルトガルのバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰を回航。インドへの海路が現実のものとなる。
1492コロンブスの到達スペインの支援を受けたコロンブスがカリブ海の島々に到達。スペインの新世界への関心が急拡大。
1493教皇子午線教皇アレクサンデル6世が「インテル・カエテラ」を発布し、大西洋に分界線を設定。ポルトガルが強く反発。
1494トルデシリャス条約6月7日、スペインとポルトガルがトルデシリャスで条約に調印。境界線を西経約46度付近にずらして確定。
1498ヴァスコ・ダ・ガマのインド到達ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でインドのカリカット(コジコード)に到達。東方航路を確立。
1500カブラルのブラジル漂着ポルトガルのカブラルが南アメリカの東端(現ブラジル)に漂着。条約の境界線の東側であることを確認しポルトガル領と主張。
1519マゼランの世界周航出発スペインの支援を受けたマゼランが世界周航に出発。太平洋を横断しアジアへ。香辛料諸島(モルッカ諸島)の帰属問題が浮上。
1529サラゴサ条約スペインとポルトガルがサラゴサ条約でアジア側(太平洋)の境界も確定。トルデシリャス体制が地球全体に及ぶ。
◎スペインとポルトガルの海洋進出をめぐる直接対立を外交的に回避し、両国が約1世紀にわたって大航海時代の覇権を二分した。ブラジルのポルトガル語文化圏という現在にまで続く地政学的構造を生み出した。
△この条約はスペインとポルトガル以外の国(イギリス・フランス・オランダなど)の同意を得ておらず、後にこれらの国が「教皇に海を分ける権限はない」と主張して参入し、条約の実効性は次第に失われた。また、現地の人々の意向は一切考慮されておらず、植民地支配と収奪の起点となった点は批判的に評価される必要がある。
フェルナンド2世・イサベル1世
スペイン(カスティーリャ・アラゴン)共同統治王コロンブスの航海を支援したスペイン側の君主。トルデシリャス条約の締結主体。両国の婚姻同盟によって統一スペインの基礎を築いた。
ジョアン2世
ポルトガル王(在位1481〜1495年)「完全王」と呼ばれた外交手腕に優れた王。教皇子午線に強く抗議し、外交交渉で境界線を西にずらすことに成功した。条約の翌年1495年に没した。
アレクサンデル6世
ローマ教皇(在位1492〜1503年)スペイン出身のロドリゴ・ボルジア。1493年の教皇勅書「インテル・カエテラ」でスペインとポルトガルの分界線を設定した。スペイン寄りの判断としてポルトガルから批判を受けた。
クリストファー・コロンブス
航海者(スペイン後援)1492年に大西洋を横断しカリブ海の島々に到達したことが、トルデシリャス条約締結の直接の引き金となった。自身はインドに到達したと信じていたとされる。
ペドロ・アルヴァレス・カブラル
ポルトガルの航海者1500年にブラジルに漂着(到達)し、その地がトルデシリャス条約の境界線東側であることを確認してポルトガル領と主張。ブラジルのポルトガル領化の起点となった人物。
- トルデシリャス条約
- 1494年6月7日にスペインとポルトガルが締結した条約。大西洋に南北に走る境界線(西経約46度)を設け、西をスペイン、東をポルトガルの勢力圏と定めた。
- 教皇子午線
- 1493年に教皇アレクサンデル6世が「インテル・カエテラ」によって設定した分界線。カーボベルデ諸島の西約100リーグに引かれたが、トルデシリャス条約で西にずらして修正された。
- 大航海時代
- 15世紀半ばから17世紀ごろにかけて、ヨーロッパ諸国が海洋に進出してアフリカ・アジア・アメリカへの航路を開拓した時代。ポルトガルとスペインがその先駆けとなった。
- インテル・カエテラ
- ラテン語で「その他のものの中で」の意。1493年に教皇アレクサンデル6世が発布した教皇勅書の名称。新世界の支配権をスペインに認める内容で、ポルトガルが強く反発するきっかけとなった。
- サラゴサ条約
- 1529年にスペインとポルトガルが結んだ条約。トルデシリャス条約では不明確だった太平洋(アジア側)の境界線を定め、香辛料諸島(モルッカ諸島)をポルトガル圏と確認した。
- 教皇勅書
- 教皇が発布する公文書の一種。ラテン語で「ブッラ(bulla)」とも呼ばれ、封蝋の印章が用いられる。中世から近世にかけて国際的な権威を持つ文書とみなされた。
1ブラジルだけポルトガル語の理由がここにある
南アメリカの国のほとんどはスペイン語を公用語とするが、ブラジルだけはポルトガル語を公用語とする。これはトルデシリャス条約の境界線がブラジルの東端部をポルトガル圏に含めたことに由来する。1500年にカブラルがブラジルに到達した際、その土地が条約上ポルトガル圏に属することが確認された。
2当時はブラジルの存在を誰も知らなかった
トルデシリャス条約が結ばれた1494年時点では、南アメリカ大陸の存在はまだヨーロッパ人に知られていなかった。境界線の設定後6年が経過した1500年にカブラルがブラジルに漂着して初めて、その土地がポルトガル圏に入ることが判明した。条約が結果的にブラジルをポルトガルに与えた形となった。
3地球の反対側はサラゴサ条約(1529年)で補完
トルデシリャス条約は大西洋側の境界を定めたが、マゼランの世界周航(1519〜1522年)によってフィリピン・モルッカ諸島の帰属問題が浮上した。1529年のサラゴサ条約でアジア側の境界も定められ、モルッカ諸島はポルトガル圏とされた。フィリピンはのちにスペインが実効支配を続けた。
4イギリス・フランスはこの条約を認めなかった
フランスのフランソワ1世は「アダムの遺言書のどこに世界をスペインとポルトガルに分けると書いてあるのか見せてほしい」と皮肉ったと伝えられる。イギリス・フランス・オランダは教皇の権限で海を分けることを認めず、16〜17世紀に積極的に新大陸や海洋へ進出して条約の実効性を崩した。
5条約の調印地は内陸の小都市
トルデシリャスはスペインのカスティーリャ地方(現バリャドリード県)にある小都市。大海洋の分割を決めた歴史的な条約が内陸の小都市で調印されたのは、当時の外交交渉が宮廷(王の居場所)を中心に行われていたためである。現在も世界遺産に関連した史跡として観光客が訪れる。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1494年。語呂は「いよ串(1494)トルデシリャス条約」。
締結国はスペインとポルトガルの二か国。教皇の定めた教皇子午線をポルトガルの要求で西にずらして合意。
境界線は西経約46度付近で、西をスペイン圏、東をポルトガル圏と定めた。
この条約によってブラジルがポルトガル領となり、南アメリカで唯一のポルトガル語圏が生まれた理由となる。
1529年のサラゴサ条約(アジア側の境界確定)とセットで覚えるとよい。
コロンブスの新大陸到達(1492年)→教皇子午線(1493年)→トルデシリャス条約(1494年)の流れを押さえること。
語呂クイズ
「意欲、駆使(1494)世界分割」= トルデシリャス条約が結ばれるは西暦何年?
- Q. トルデシリャス条約とはどんな条約ですか?
- A. 1494年にスペインとポルトガルが結んだ条約で、大西洋に南北に走る境界線(西経約46度付近)を設け、その西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力圏と定めたものです。
- Q. なぜこの条約が結ばれたのですか?
- A. 1492年のコロンブスによる新大陸到達をきっかけに、スペインとポルトガルの間で海外領土の権利争いが激化したためです。翌1493年に教皇アレクサンデル6世が教皇子午線を設定しましたが、ポルトガルが不満として交渉を求め、翌1494年に修正した形で条約が成立しました。
- Q. ブラジルだけポルトガル語なのはなぜですか?
- A. トルデシリャス条約の境界線が、ブラジルの東端部をポルトガル圏に含めていたためです。1500年にポルトガルのカブラルがブラジルに到達した際、その土地が条約上ポルトガル圏にあることが確認され、ポルトガルが植民地化を進めたことでポルトガル語と文化が根付きました。
- Q. サラゴサ条約とはどんな関係ですか?
- A. トルデシリャス条約は大西洋側の境界を定めましたが、1519年のマゼランの世界周航によってアジア側の境界があいまいになりました。1529年のサラゴサ条約はその補完として、太平洋(アジア側)の境界を定めたもので、セットで覚えると理解しやすいです。
- Q. この条約はずっと有効でしたか?
- A. イギリス・フランス・オランダはこの条約を認めず、16〜17世紀に積極的に海洋へ進出しました。フランス王は「世界を分割するアダムの遺言は見ていない」と皮肉ったとも伝えられます。条約の実効性は次第に失われていきましたが、ブラジルのポルトガル語文化圏という形でその痕跡は現在も残っています。
トルデシリャス条約は、コロンブスの新大陸到達からわずか2年後に、スペインとポルトガルが地球丸ごとを二分するという前代未聞の取り決めをした歴史的な条約です。西経約46度を境に西をスペイン、東をポルトガルの勢力圏と定めたこの境界線は、ブラジルだけが南アメリカでポルトガル語を使う理由という形で現在の世界地図にその痕跡を残しています。「いよ串(1494)トルデシリャス条約」の語呂とともに、コロンブスの到達(1492年)→教皇子午線(1493年)→トルデシリャス条約(1494年)という流れと、ブラジルのポルトガル語圏化という結果を押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
境界線の位置については「西経約46度」と記述したが、当時の測量技術では正確な経度測定が困難であり、現代の換算では46度30分前後とする説もある。本文は「西経約46度」の通説的表現を採用した。
カブラルのブラジル漂着については、意図的な航海であったとする説と偶発的な漂着とする説がある。本文は「漂着」と表現し断定を避けた。
コロンブスが「インドに到達したと信じていた」については、晩年まで信じていたとする説が有力だが、異論もあるため「信じていたとされる」と表現した。
フランソワ1世の「アダムの遺言書」の言葉については、実際の発言記録が不明確なため「伝えられる」と表現した。
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