高校/社会
1519
マゼラン一行が世界周航に出発する
フェルディナンド・マゼラン
語呂
覚え方
以後行く(1519)マゼラン世界一周
いごいく(1519)マゼランせかいしゅうこう
1519年、スペイン王室の支援を受けたマゼランの船団が西回り航路でモルッカ諸島(香辛料諸島)を目指して出発しました。マゼランはポルトガル人でありながらスペインに仕え、大西洋→南米南端→太平洋という前人未到の航路を切り開きました。しかしマゼラン本人は1521年にフィリピンのマクタン島で戦死し、世界一周を完遂していません。残った乗組員がフアン・セバスティアン・エルカーノに率いられ、1522年にスペインへ帰還し、人類初の世界一周を達成しました。この航海は地球が球体であることを航路で実証し、太平洋という名前を生み出した、大航海時代の到達点です。
この記事のポイント
- 1519年、スペイン王室の支援でマゼラン率いる船団が西回り航路に出発
- 南米南端のマゼラン海峡を通過し、太平洋を横断(太平洋の命名はマゼランによる)
- マゼラン本人は1521年フィリピン・マクタン島の戦闘で戦死し、世界一周を達成していない
- 部下のエルカーノらが残りの航路を完走し、1522年に帰還。人類初の世界一周を達成
- 地球球体説を航路で実証し、大航海時代の到達点として歴史に刻まれた
ここが面白い「マゼランが世界一周した」は誤り。マゼラン本人はフィリピンで戦死し、一周を果たしたのは部下のエルカーノだった。
マゼランの航海は突然始まったわけではありません。15〜16世紀のヨーロッパが香辛料をめぐって繰り広げた競争と、国際的な条約の枠組みが出発点にあります。
香辛料をめぐるスペイン・ポルトガルの競争
15世紀末、ポルトガルはアフリカ西海岸を南下するルートを開拓し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドへの東回り航路を確立しました。香辛料(主にコショウ・ナツメグ・クローブ)は当時ヨーロッパで非常に高価で、産地のモルッカ諸島(現インドネシア)を押さえることは巨利を意味しました。スペインはポルトガルに先行されており、西回りのルートで到達することを模索していました。
トルデシリャス条約(1494年)
コロンブスの航海(1492年)の翌年、教皇の仲裁によってスペインとポルトガルは世界を2分する「トルデシリャス条約」を締結しました。大西洋のある経線を境に、西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力圏とする取り決めです。モルッカ諸島がどちらに属するかは曖昧で、スペインは西回り航路での到達を正当化しようとしました。
マゼランとスペインへの仕官
フェルディナンド・マゼランはポルトガル人の航海者で、モルッカ諸島への航海経験を持っていました。ポルトガル王の支援を得られなかったマゼランは、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に西回り航路でモルッカ諸島に到達できると売り込み、遠征隊の指揮権を獲得しました。
出発と船団の構成
1519年9月、マゼランは5隻の船と約270名の乗組員を率いてスペインのセビリャを出港しました。乗組員にはスペイン人・ポルトガル人・イタリア人など多国籍の人々が含まれており、長期航海への期待と不安が入り交じっていました。
マゼラン海峡の発見と太平洋横断
≒ グーグルマップのない時代に未知の水路を手探りで突破する大冒険1520年、南米最南端の難所を通過する水路(現在のマゼラン海峡)を発見し、太平洋へ抜けた。穏やかに見えた大洋を「太平洋(Mar Pacifico)」と命名。その後約3か月半、補給なしで太平洋を横断した。
マゼランのフィリピン戦死
≒ 現地の権力争いに巻き込まれた指揮官の死1521年4月、フィリピンのセブ島首長の同盟軍としてマクタン島首長ラプラプと戦闘。マゼランは矢などで攻撃され戦死。世界一周を目前にして命を落とした。
エルカーノによる帰還
≒ 指揮官の死を乗り越えた部下たちの生還マゼランの死後、指揮を引き継いだエルカーノが残った1隻(ビクトリア号)でインド洋→喜望峰経由でスペインへ帰還。1522年9月、約3年の航海を経て世界一周を達成した。270名いた乗組員のうち帰還したのは18名のみだった。
1494条約トルデシリャス条約締結。スペイン・ポルトガルが世界を2分する勢力圏を取り決める。
1498東回りポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ回りでインドに到達し、東回り航路を確立。
1519出発マゼラン率いる5隻の船団がスペイン・セビリャを出港(9月20日)。
1520海峡通過南米南端の水路(マゼラン海峡)を発見・通過し、太平洋へ。大洋を「太平洋」と命名。
1521マゼラン戦死フィリピン・マクタン島でラプラプ軍との戦闘でマゼラン戦死(4月27日)。世界一周未達成のまま。
1522帰還エルカーノが指揮するビクトリア号がスペインに帰還(9月6日)。18名が人類初の世界一周を達成。
1529サラゴサ条約スペインとポルトガルがモルッカ諸島の帰属を確定。スペインはポルトガルに権利を売却した。
◎地球が球体であることを、実際に一周するという形で実証した。それまでの学説を航路で裏付けた歴史上初の偉業。
◎太平洋の存在と広大さをヨーロッパに伝え、「太平洋」という名称が生まれた。世界地図の空白が大幅に埋まった。
△フィリピンをはじめとする島々での上陸は、その後のスペインによる植民地支配の礎となった。現地の人々との衝突も各地で起きた。
△出発時270名の乗組員のうち帰還したのは18名のみ。航海の過酷さと人的犠牲は甚大だった。
フェルディナンド・マゼラン
ポルトガル出身の航海者・船団指揮官スペイン王室の支援で世界周航に出発。マゼラン海峡・太平洋横断を成し遂げたが、1521年フィリピン・マクタン島で戦死。自身は世界一周を達成していない。
フアン・セバスティアン・エルカーノ
スペインの航海者・帰還船の指揮官マゼランの死後に指揮を引き継ぎ、ビクトリア号でスペインへ帰還。人類初の世界一周を達成した真の完遂者。
カルロス1世(カール5世)
スペイン王・神聖ローマ皇帝マゼランの計画を支援し、遠征隊を派遣した。後にエルカーノの帰還を称えた。
ラプラプ
フィリピン・マクタン島の首長スペイン人の上陸に抵抗し、1521年の戦闘でマゼランを打ち破った。フィリピンでは植民地支配への抵抗の英雄として知られる。
アントニオ・ピガフェッタ
イタリア出身の航海記録者マゼランの航海に同行し、詳細な日誌を残した。この記録が世界周航の歴史を伝える一次資料となっている。
- トルデシリャス条約
- 1494年、スペインとポルトガルが教皇の仲裁のもとで締結した条約。大西洋の特定の経線を境に世界をふたつの勢力圏に分割した。モルッカ諸島の帰属が曖昧だったことがマゼランの航海の背景のひとつとなった。
- マゼラン海峡
- 南米大陸最南端付近にある海峡で、大西洋と太平洋をつなぐ。マゼランが1520年に西ヨーロッパ人として初めて通過し、その名がついた。
- 太平洋
- マゼランが大西洋から南米を回って抜けた後、穏やかな海面を見て「Mar Pacifico(穏やかな海)」と命名した。太平洋という名の由来はここにある。
- モルッカ諸島(香辛料諸島)
- 現在のインドネシア東部にある島々。クローブやナツメグなどの香辛料の産地で、当時ヨーロッパで非常に高価だったため、ポルトガル・スペインが争って支配を目指した。
- 大航海時代
- 15〜17世紀、ヨーロッパ諸国が新たな航路や土地を求めて大規模な航海を行った時代。マゼランの世界周航はその到達点のひとつとされる。
1「マゼランが世界一周した」は教科書的な誤解
マゼランはフィリピンで戦死しており、世界一周を達成したのはエルカーノら18名の帰還者です。ただし「マゼラン一行の世界周航」として一体で語られることが多く、「マゼラン=世界一周」という誤解が広まりました。試験でも「マゼラン自身は一周していない」が問われることがあります。
2太平洋は「嵐のない穏やかな海」だとマゼランは思っていた
マゼラン海峡を抜けて太平洋に入ったとき、たまたま穏やかな天候が続いたため「Pacifico(平和な・穏やかな)」と名付けました。しかし実際の太平洋は台風や高波が多く、この命名は航海後半に悲惨な誤算を生みました。太平洋横断中、食料と水が尽き、多くの乗組員が壊血病やひもじさで死亡しました。
3帰還者はわずか18名、そして1隻
出発時には5隻・約270名だった船団が、帰還したのはビクトリア号1隻・18名のみ。太平洋での過酷な航海・戦闘・反乱・嵐などで多くの命が失われました。残りの乗組員はポルトガルに拿捕されたり、途中で死亡したりしています。
4マゼランを倒したラプラプはフィリピンの英雄
マゼランを打ち倒したマクタン島の首長ラプラプは、フィリピンでは植民地化に抵抗した民族的英雄として称えられています。マクタン島には彼の銅像が建ち、空港にも名前が付けられています(マクタン・セブ国際空港)。
5日誌が残っていなければ、この航海の詳細は失われていた
同行したイタリア人アントニオ・ピガフェッタが詳細な航海日誌を書き残したことで、マゼランの航海の全容が後世に伝わりました。ピガフェッタは18名の帰還者のひとりです。もし彼がいなければ、歴史の記録は大幅に失われていたでしょう。

ここが出る博士のワンポイント
出発年は1519年。語呂は「以後行く(1519)マゼラン世界一周」。
支援国はスペイン(カルロス1世)。マゼランはポルトガル人だがスペインに仕えた点に注意。
最重要:マゼラン本人は1521年フィリピン・マクタン島で戦死しており、世界一周を達成していない。
人類初の世界一周を実際に達成したのはエルカーノ率いる帰還者(1522年)。
マゼラン海峡(南米南端)・太平洋の命名・地球球体説の実証という3点の意義を押さえる。
背景として、香辛料貿易とトルデシリャス条約(1494年)を理解しておく。
語呂クイズ
「以後行く(1519)マゼラン世界一周」= マゼラン一行が世界周航に出発するは西暦何年?
- Q. マゼランは世界一周を達成しましたか?
- A. 達成していません。マゼランは1521年にフィリピンのマクタン島で戦死しました。世界一周を完遂したのは、部下のエルカーノら18名が1522年にスペインへ帰還したことによります。「マゼランが世界一周した」はよくある誤解です。
- Q. なぜスペインがマゼランを支援したのですか?
- A. ポルトガルがアフリカ回りの東回り航路を独占していたため、スペインは西回りでモルッカ諸島(香辛料の産地)に到達したかったからです。マゼランがその可能性をスペイン王カルロス1世に提案し、支援を得ました。
- Q. マゼランはどこで死にましたか?
- A. フィリピンのマクタン島です。1521年4月27日、現地の首長ラプラプとの戦闘で戦死しました。
- Q. 「太平洋」という名前はどこから来たのですか?
- A. マゼランが名付けました。マゼラン海峡を通過して太平洋に入ったとき、天候が穏やかだったため「Mar Pacifico(穏やかな海)」と呼んだことが由来です。
- Q. この航海の歴史的意義は何ですか?
- A. 主に3点あります。①地球が球体であることを実際に一周することで実証した、②太平洋の存在と広大さをヨーロッパに知らしめた、③大航海時代の到達点として世界規模の航路が開かれた、という点です。
- Q. トルデシリャス条約とはどんな条約ですか?
- A. 1494年、スペインとポルトガルが教皇の仲裁で結んだ条約です。大西洋の経線を境に世界をふたつに分け、それぞれの探検・領有の範囲を取り決めました。マゼランの西回り航路はこの枠組みの中でスペインが香辛料貿易に参入しようとした試みです。
マゼラン一行の世界周航(1519〜1522年)は、大航海時代の到達点であり、地球が球体であることを航路で実証した人類史上の偉業です。ただし試験・理解の両面で最も重要な点は「マゼラン本人は世界一周を達成していない」という事実です。1521年にフィリピンで戦死し、一周を完成させたのはエルカーノら帰還者でした。語呂「以後行く(1519)マゼラン世界一周」で出発年を、「マゼラン海峡・太平洋の命名・エルカーノ帰還1522年」の3点セットを必ず押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
「マゼランが世界一周した」という表現は厳密には誤りだが、「マゼラン一行」「マゼラン=エルカーノの航海」として一体で語られる場合が多い。本記事では「マゼラン本人は世界一周未達成」を明確に記述した。
ラプラプの評価(英雄か否か)は視点によって異なるが、本記事ではフィリピン国内の評価を中立的に紹介するにとどめた。
出発日については史料により9月20日説と同10日説があるが、本記事では一般に広まっている9月20日を採用した。
result の負の側面(植民地支配・犠牲者数)は断定的な非難でなく、史実として中立的に記述した。