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1414

コンスタンツ公会議が開かれる

ジギスムント(神聖ローマ皇帝)
語呂
覚え方
いよいよ(1414)コンスタンツ公会議
いよいよ(1414)コンスタンツ公会議

1414年から1418年にかけて、現在のドイツとスイスの国境付近に位置するコンスタンツ(コンスタンス)で開かれた公会議は、中世ヨーロッパ史上もっとも重要な教会会議のひとつです。神聖ローマ皇帝ジギスムントの強力な後押しのもと、三つの勢力に分裂していた「教会大分裂(大シスマ)」を収拾するために招集されました。会議は複数の教皇を廃位・退位させたうえで、1417年にマルティヌス5世を新たに選出し、約40年に及んだ分裂に終止符を打ちました。一方でボヘミアの宗教改革者ヤン=フスを異端として召喚・断罪し、1415年に火刑に処したことは、後のフス戦争を引き起こす火種となりました。ウィクリフの教説も死後に断罪され、遺骸の掘り起こしと焼却が命じられています。

この記事のポイント

  • 1414〜1418年、神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱でコンスタンツ(現ドイツ南部)で開催
  • 教会大分裂(大シスマ)を終結させるため、複数の教皇を廃位・退位させ1417年にマルティヌス5世を選出
  • ボヘミアの宗教改革先駆者ヤン=フスを1415年に異端として火刑に処した
  • イングランドの神学者ウィクリフの説も断罪され、死後に遺骸の掘り起こし・焼却が命じられた
  • フスの処刑はベーメン(ボヘミア)民衆の怒りを呼び、フス戦争(1419〜1436年)勃発の一因となった
ここが面白い

三人の「教皇」が同時に並立するという、中世キリスト教世界が経験した最大の混乱。その異常事態を終わらせるために集まった公会議が、1414年から始まったコンスタンツ公会議である。

ここに至るまでの流れ
背景

コンスタンツ公会議は突然始まったわけではありません。教会大分裂という深刻な危機が数十年にわたって積み重なり、それを解決しようとしたピサ公会議がかえって事態を悪化させた末に、最後の手段として開かれた会議です。その背景を順に見ていきましょう。

教会大分裂(大シスマ)の始まり

1309年以来、教皇庁はローマからアヴィニョン(現フランス南部)に移転し、フランス王の影響下に置かれていました(「アヴィニョン捕囚」)。1377年に教皇グレゴリウス11世がローマに帰還して間もなく死去すると、後継者選出をめぐってイタリア派とフランス派が分裂。1378年にローマでウルバヌス6世が選出される一方、フランス王の支持を受けた枢機卿たちはアヴィニョンにクレメンス7世を擁立しました。これが教会大分裂(西方大シスマ)の始まりで、ヨーロッパ各国の君主が利害に応じていずれかの教皇に服属したため、教会の権威は著しく低下しました。

ピサ公会議とさらなる混乱

1409年、分裂打開を目指して枢機卿たちがイタリアのピサに集まり、ローマ・アヴィニョン両教皇を廃位してアレクサンデル5世を選出しようとしました。しかし廃位された両教皇は退かず、結果として三人の「教皇」が並立するという前代未聞の事態が生じました。この混乱はキリスト教世界全体の信用を大きく損ない、公会議による抜本的な解決の必要性がいっそう高まりました。

神聖ローマ皇帝ジギスムントの役割

ボヘミア王であり1433年に正式に神聖ローマ皇帝となるジギスムントは、この混乱を終わらせることが自らの政治的権威の確立にも不可欠と判断し、教皇ヨハネス23世(ピサ系)を説得して公会議の開催に合意させました。会議の舞台となったコンスタンツは、当時ジギスムントの勢力圏に近い帝国都市で、東西南北からの交通の便に優れた地点でした。

コンスタンツ公会議の進行と三教皇問題の解決

1414年11月に始まった会議には、高位聖職者・神学者・世俗君主の代表など数万人規模が集まったとされます。会議は投票方式を刷新し、個人ではなく「国民別」(ドイツ・フランス・イングランド・イタリア・スペイン)の合議制をとりました。ピサ系のヨハネス23世は廃位、アヴィニョン系のベネディクトゥス13世も廃位(実質的には孤立化)、ローマ系のグレゴリウス12世は名誉ある退位に応じ、1417年にオドーネ・コロンナがマルティヌス5世として選出されました。約40年にわたった大分裂はここに終結しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

教会大分裂の終結

≒ 分裂した組織を一本化するための「緊急調整会議」

三人並立していた教皇を整理し、マルティヌス5世のもとでキリスト教世界の教会統一を回復した。中世ローマ教皇権の権威回復という意味では成功したが、その後も教皇権の相対化は進んだ。

ヤン=フスの異端断罪と火刑

≒ 体制に対する異議申し立てが「異端」として弾圧された事件

ボヘミアの神学者ヤン=フスは聖書の権威を重視し教皇権と聖職者の腐敗を批判した。ジギスムントから身の安全を保証する通行証を与えられて召喚されたが、公会議は通行証の効力を否定し、1415年に火刑に処した。

公会議至上主義の台頭

≒ 「社長より取締役会の方が上」という組織原理の議論

「公会議は教皇よりも上位の権威を持つ」という考え方(公会議主義)が会議の運営原則となった。この思想はその後の教皇権と公会議の関係をめぐる論争を複雑にした。

前後のできごと
年表
1309
アヴィニョン捕囚の開始教皇クレメンス5世が教皇庁をアヴィニョンに移す。フランス王の影響下に置かれ、「アヴィニョン捕囚」が始まる。
1378
教会大分裂の始まりローマにウルバヌス6世、アヴィニョンにクレメンス7世が並立し、西方大シスマが始まる。
1409
ピサ公会議両教皇廃位・新教皇選出を試みたが両教皇は退かず、三教皇並立状態に陥る。
1414
コンスタンツ公会議開会11月、神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱と教皇ヨハネス23世の召集により開会。
1415
ヨハネス23世廃位・フス火刑ピサ系のヨハネス23世が廃位される。7月6日、ヤン=フスが異端として火刑に処される。
1415
グレゴリウス12世の退位ローマ系のグレゴリウス12世が名誉ある形で自発的に退位し、正式な廃位を免れた。
1416
ヒエロニムス・プラジュスキーの火刑フスの同志ヒエロニムス・プラジュスキーも異端として火刑に処される。
1417
マルティヌス5世選出・大分裂終結11月、オドーネ・コロンナがマルティヌス5世として選出され、40年に及ぶ教会大分裂が終結。
1418
公会議閉会コンスタンツ公会議が正式に閉会。マルティヌス5世のもとでローマへの帰還が進む。
1419
フス戦争の勃発フスの火刑に怒ったボヘミア民衆が蜂起し、フス戦争が始まる(〜1436年)。
結果とその後
結果
40年に及んだ教会大分裂が終結し、マルティヌス5世のもとでキリスト教世界の統一が回復された。国民別議決という新しい運営方式は、後の国際会議の先例ともなった。
ヤン=フスへの身の安全の保証(通行証)を反故にして火刑に処したことは、ボヘミア民衆の激しい反発を招き、フス戦争という長期の内乱を引き起こした。また公会議至上主義(公会議が教皇より上位という考え方)は、その後の教皇権との対立を複雑にする要因となった。
登場人物
人物

ジギスムント

ボヘミア王・後に神聖ローマ皇帝(在位1433〜1437年)

コンスタンツ公会議の最大の推進者。フスに通行証を発行しながらその処刑を容認したため、ボヘミア民衆からの激しい反発を受けてフス戦争の遠因となった。

ヤン=フス

ボヘミアの神学者・プラハ大学学長

聖書の権威を重視し教皇権と聖職者の腐敗を批判。ウィクリフの思想に影響を受けた。通行証を信じてコンスタンツへ赴いたが、1415年7月6日に火刑に処された。のちに宗教改革の先駆者と位置づけられる。

マルティヌス5世

新たに選出されたローマ教皇(在位1417〜1431年)

イタリアの名門コロンナ家出身のオドーネ・コロンナ枢機卿が選出された。大分裂終結後の教会の安定回復に努めた。

ヨハネス・ウィクリフ

イングランドの神学者(すでに死去)

1384年に死去していたが、コンスタンツ公会議で教説が断罪され、遺骸の掘り起こしと焼却が命じられた(実際に執行されたのは1428年)。フスに大きな思想的影響を与えた。

ヨハネス23世

ピサ系教皇

公会議の招集に名義上同意したが、会議の進行とともに自らの廃位が迫ると逃亡を図り、最終的に廃位された。

キーワード解説
用語
教会大分裂(大シスマ・西方大シスマ)
1378年から1417年にかけてローマとアヴィニョン(さらにピサ)に複数の教皇が並立した事態。東西教会分裂(1054年)と区別するため「西方大シスマ」とも呼ぶ。
公会議
キリスト教会の全体的な問題を協議するために聖職者・神学者・世俗君主の代表が集まる会議。「公(エクメニカル)」とは「全キリスト教世界」を意味する。
公会議至上主義(公会議主義)
教皇よりも公会議(全教会の代表による会議)の方が上位の権威を持つという考え方。コンスタンツ公会議の運営原理となったが、その後の教皇との対立の種をまいた。
アヴィニョン捕囚
1309年から1377年にかけて教皇庁がフランスのアヴィニョンに置かれた時期。フランス王の政治的影響下にあったことから「捕囚」と呼ばれる。バビロン捕囚になぞらえた表現。
フス戦争
1419年から1436年にかけてボヘミア(現チェコ)で起きた宗教・民族的内乱。ヤン=フスの火刑に端を発し、フス派がジギスムントのカトリック軍に対して戦った。複数回の十字軍遠征を撃退し、最終的にはフス派の一部との和解(バーゼル公会議での協定)で収拾された。
通行証(安全通行証)
会議への召喚に応じる者に対して、往来の安全を保証した文書。ジギスムントがフスに発行したが、公会議は「異端者に対しては通行証は効力を持たない」として無視した。
もっと知りたい
豆知識

1会議の規模は現代でも驚異的

コンスタンツ公会議には枢機卿・司教・修道院長・神学者・各国の世俗的代表など、あわせて数万人が集まったとされる。当時のコンスタンツの人口を大きく超える参加者が押し寄せ、宿屋や食料の手配が大きな問題になったという記録が残っている。

2「安全通行証」は本当に無効だったのか

ジギスムントがフスに発行した安全通行証について、公会議は「異端者への保証は無効」という論理で焼却処分を正当化した。しかしこの処置はボヘミアでは「約束を破った」と強く受け止められ、ジギスムントへの不信感を決定的にした。

3投票方式の革新「国民別議決」

個人ひとりひとりが投票する方式では多数のイタリア人聖職者が有利になるため、コンスタンツ公会議はヨーロッパをドイツ・フランス・イングランド・イタリア・スペインの五「国民」に分けて合議する方式を採用した。この国民単位での意思決定という考え方は、後の外交・国際会議の先例となったと評価されることもある。

4ウィクリフは死後に「再び」裁かれた

イングランドの神学者ヨハネス・ウィクリフは1384年にすでに死亡していたが、コンスタンツ公会議は彼の教説を異端と断罪し、遺骸を掘り起こして焼却するよう命じた。これは1428年に実際に執行され、遺骨はスウィフト川に撒かれたという。

5コンスタンツ公会議の会場は今も現存する

会議の多くのセッションが行われたコンスタンツ公会議館(コンツィル)は、現在もドイツのコンスタンツ市に現存しており、ヨーロッパ最古の現存する会議場のひとつとされている。市内にはフスの記念碑も立てられている。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1414年(開始)〜1418年(閉会)。語呂は「いよいよ(1414)コンスタンツ公会議」。
提唱者は神聖ローマ皇帝(ボヘミア王)ジギスムント。
三つの目的:①教会大分裂の収拾、②教会改革、③異端問題(フス・ウィクリフ)。
1417年にマルティヌス5世を選出して大分裂(大シスマ)を終結させた。
ヤン=フスを1415年に火刑に処したことがフス戦争(1419〜1436年)の一因。
公会議至上主義:教皇よりも公会議が上位の権威を持つという考え方が採用されたことも問われる。
語呂クイズ
「いよいよ(1414)コンスタンツ公会議」= コンスタンツ公会議が開かれるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. コンスタンツ公会議とはどんな会議ですか?
A. 1414年から1418年にかけて現在のドイツ南部で開かれた、中世キリスト教会最大の全体会議です。三人の教皇が並立していた「教会大分裂」を解消することが主な目的でした。
Q. なぜ三人の教皇が並立していたのですか?
A. 1378年のローマとアヴィニョンへの分裂(大シスマ)に加え、1409年のピサ公会議がさらに新たな教皇を立てたためです。廃位された両教皇が退かなかったため、三者並立という事態になりました。
Q. ヤン=フスはなぜ火刑に処されたのですか?
A. 聖書の権威を教皇権より上に置き、聖職者の腐敗を批判するウィクリフの影響を受けた神学を説いたため、公会議に異端と断罪されました。安全通行証を発行されて出席したにもかかわらず処刑されたことが、ボヘミアで大きな反発を招きました。
Q. コンスタンツ公会議の結果、教会は統一されましたか?
A. はい、1417年のマルティヌス5世選出によって形式上の統一は回復されました。ただし公会議至上主義と教皇権の対立は続き、また異端弾圧がフス戦争という新たな混乱を生むなど、根本的な問題は残りました。
Q. コンスタンツ公会議は宗教改革とどう関係しますか?
A. ウィクリフとフスの思想的系譜は、100年後のルターの宗教改革に影響を与えたとされます。また公会議至上主義という考え方も、ルターが教皇権に対抗する論拠のひとつとなりました。
まとめ

コンスタンツ公会議は、三人の教皇が並立するという中世キリスト教世界の空前の危機を終息させた歴史的な会議です。40年に及んだ「教会大分裂」はマルティヌス5世の選出によって収束しましたが、ヤン=フスを安全通行証を反故にして火刑に処したことは、ボヘミアにフス戦争という深刻な内乱をもたらしました。ウィクリフとフスの批判精神はその後も受け継がれ、100年後のルターによる宗教改革への道をひそかに照らし続けました。「いよいよ(1414)コンスタンツ公会議」と覚えながら、分裂の終結と新たな火種という二面性をしっかり押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
ジギスムントは厳密には1433年に神聖ローマ皇帝として戴冠しているが、公会議当時はボヘミア王・ハンガリー王として会議を推進した立場であり、通常の通史記述では「神聖ローマ皇帝ジギスムント」とまとめて紹介されることが多いため、本文では慣例的な表記に従った。
フスへの通行証の法的効力については「教皇が出した保証ではないため公会議に拘束力がない」という当時の法解釈があり、単純な約束違反とは別の議論がある。本文では通説的な「反故にした」という解釈を用い、注記で留保する。
アヴィニョン系のベネディクトゥス13世は形式的に廃位されたが実際には孤立のまま死去(1423年)したとされる。「廃位・退位」の表現は三者の対応の違いをまとめた便宜的な表現である。
ウィクリフ遺骸の掘り起こし・焼却はコンスタンツ公会議で命じられ、1428年に実際に執行されたと伝えられるが、執行の詳細については史料による確認が限られるため断定表現を避けた。
related に指定された 1054-east-west-schism・1517-reformation は、教会分裂と宗教改革という前後の文脈として適切であり、世界史サイト内の実在IDを使用した。