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高校/宗教
622

ムハンマドがヒジュラ(聖遷)を行う

ムハンマド
語呂
覚え方
むふふ(622)でヒジュラの旅
むふふ(622)ヒジュラせいせん

622年、預言者ムハンマドとその信者たちはアラビア半島のメッカを離れ、北方の都市メディナ(当時はヤスリブと呼ばれた)へ移住しました。この出来事はアラビア語で「ヒジュラ(移住)」と呼ばれ、日本語では「聖遷」とも訳されます。ヒジュラはたんなる居住地の移動ではなく、信仰を核とした共同体(ウンマ)が成立した歴史的な転換点です。イスラム世界ではこの622年を「ヒジュラ暦元年」とし、現在も使われるイスラム暦(ヒジュラ暦)の起点となっています。

この記事のポイント

  • 622年、ムハンマドと信者がメッカからメディナ(ヤスリブ)へ移住——これがヒジュラ(聖遷)
  • 610年ごろムハンマドが啓示を受け布教を開始したが、メッカの有力者から迫害を受けていた
  • メディナで信仰を基盤とするイスラム共同体(ウンマ)が成立した
  • この622年がイスラム暦(ヒジュラ暦)の元年(紀元)とされ、現在も使われている
  • 宗教共同体が同時に政治・社会共同体でもあるという、その後のイスラム世界の基礎が築かれた
ここが面白い

ヒジュラは「逃亡」ではなく「新たな国家の始まり」だった。この移住がイスラム暦の紀元0年となり、一つの共同体が世界史を動かす力に変わった。

ここに至るまでの流れ
背景

ヒジュラが起きた背景には、7世紀アラビア半島の宗教・社会状況があります。当時のメッカとムハンマドの置かれた状況を見ていきましょう。

7世紀アラビア半島の状況

7世紀初頭のアラビア半島は、多神教の伝統が根強く、部族ごとに独自の神々を崇拝していました。メッカはカアバ神殿(当時は多数の偶像が安置されていた)を中心とした宗教都市であり、巡礼交易で栄えていました。有力なクライシュ族がその既得権益を握っており、唯一神信仰の布教は彼らの経済的・政治的立場を揺るがすものと受け止められました。

ムハンマドの啓示と布教(610年ごろ〜)

610年ごろ、メッカ近郊のヒラー山の洞窟でムハンマドは最初の啓示を受けたとされます。その後、唯一神アッラーへの帰依・偶像崇拝の否定・社会正義を説く布教を始めました。初期の信者には妻ハディージャ、いとこのアリー、友人アブー・バクルらが含まれます。しかし、多神教の有力者からの反発・迫害が次第に強まりました。

迫害とエチオピアへの最初の移住

メッカでの迫害を逃れるため、615年ごろに一部の信者がエチオピア(アクスム王国)へ移住するという先例がありました。これはヒジュラの前段階として位置づけられることもあります。メッカでの状況はその後も改善せず、622年の大規模な移住(ヒジュラ)につながりました。

メディナからの招き

メッカ北方約400キロに位置するヤスリブ(後のメディナ)は、複数の部族が対立しており、調停者を必要としていました。621〜622年にかけてヤスリブの代表者たちがムハンマドと協定を結び(アカバの誓い)、信者の受け入れを約束しました。こうして組織的な移住が実現しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

メッカからメディナへの移住

≒ 迫害を受けた集団が新天地で共同体を再建する

622年、ムハンマドと信者たちはメッカを離れメディナへ移住。ムハンマド自身の出発はアブー・バクルとともに極秘に行われたとされる。

ウンマ(イスラム共同体)の成立

≒ 血縁・部族でなく信仰で結ばれた新しい「国のもと」

メディナでムハンマドは移住者(ムハージルーン)とメディナの在地信者(アンサール)を一つの共同体として統合。メディナ憲章によってユダヤ教徒など他の集団との関係も取り決めた。

ヒジュラ暦の起点

≒ その出来事が「暦の元年」になった

後にウマル・イブン・ハッターブ(第2代カリフ)のもとで、622年のヒジュラがイスラム暦(ヒジュラ暦)の元年と定められた。現在も多くのイスラム圏で公式使用される。

前後のできごと
年表
570
誕生ムハンマド、メッカで誕生(生年には諸説あり)。
610
啓示ムハンマドがメッカ近郊ヒラー山の洞窟で最初の啓示を受けたとされる。布教を開始。
615
エチオピア移住迫害を逃れる一部の信者がエチオピア(アクスム王国)へ移住。
619
苦難の年妻ハディージャと叔父アブー・ターリブが相次いで死去。ムハンマドへの保護が弱まり迫害が激化。
621
アカバの誓いヤスリブ(後のメディナ)の代表者とムハンマドが協定(アカバの誓い)を結ぶ。移住の下準備が整う。
622
ヒジュラムハンマドと信者たちがメッカを離れメディナへ移住(ヒジュラ)。イスラム共同体(ウンマ)が成立。
630
メッカ征服ムハンマドがメッカを無血征服。カアバ神殿の偶像を除去し、イスラムの聖地とした。
632
ムハンマドがメディナで死去。後継者(カリフ)問題が生じ、正統カリフ時代が始まる。
結果とその後
結果
メディナを拠点とするイスラム共同体(ウンマ)が成立し、宗教・政治・社会が一体化した新たな共同体の形が生まれた。
ヒジュラ暦の起点として622年が定められ、現在も世界のイスラム圏で公式に使用されるなど、文明史的な影響が続いている。
ヒジュラ以降、メッカとの間で複数回の武力衝突(バドルの戦い・ウフドの戦いなど)が起きた。歴史的事実として、共同体の成立には軍事的な局面も伴った。
登場人物
人物

ムハンマド

イスラムの預言者

570年ごろメッカ生まれ。610年に啓示を受け布教を開始。ヒジュラでメディナへ移住し、イスラム共同体の指導者となった。632年没。

ハディージャ

ムハンマドの妻・最初の信者

裕福な商人の女性で、ムハンマドの最初の妻。イスラムで最初の信者ともされる。619年に死去。

アブー・バクル

ムハンマドの友人・初代カリフ

ムハンマドの最も親しい友人の一人で、ヒジュラの際に同行した。ムハンマド没後に初代カリフとなった。

アリー・イブン・アビー・ターリブ

ムハンマドのいとこ・第4代カリフ

ムハンマドのいとこで初期の信者の一人。スンナ派・シーア派の分裂に関わる人物として後世に重要な存在となる。

ウマル・イブン・ハッターブ

第2代カリフ

ヒジュラ暦(イスラム暦)の制定を主導した人物。在任中にイスラム共同体の領域が大きく拡大した。

キーワード解説
用語
ヒジュラ
アラビア語で「移住」を意味する語。622年のメッカからメディナへの移住を指し、イスラム暦の起点とされる。日本語では「聖遷」とも訳される。
ウンマ
アラビア語で「共同体」を意味する語。血縁や部族ではなく、信仰(イスラム)によって結ばれた共同体を指す。ヒジュラ後にメディナで成立した。
ヒジュラ暦(イスラム暦)
ヒジュラ(622年)を元年とする太陰暦。現在も多くのイスラム圏の国で公式または宗教的に使用されている。太陽暦より1年が約11日短い。
カリフ
アラビア語で「後継者」を意味する語。ムハンマド没後の指導者の称号。アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの4人を「正統カリフ」と呼ぶ。
メディナ憲章
ヒジュラ後にムハンマドがメディナの各部族(移住者・在地信者・ユダヤ教徒など)との関係を取り決めた協定。イスラム共同体の法的基盤とみなされることがある。
クライシュ族
メッカを支配していたアラブの有力部族。ムハンマド自身もクライシュ族の出身だが、布教後は族内の有力者と対立した。
もっと知りたい
豆知識

1ヒジュラ暦は太陽暦より1年が短いため、西暦とのずれが毎年変わる

ヒジュラ暦は純粋な太陰暦(閏月を設けない)のため、1年が約354日。西暦との差は毎年約11日ずつ変わる。そのためラマダーン(断食月)の始まる季節は年によって異なり、夏に来ることも冬に来ることもある。

2「メディナ」という地名はヒジュラ後に定着した

ムハンマドが移住する以前、この都市は「ヤスリブ」と呼ばれていた。ヒジュラ後に「マディーナ・アン・ナビー(預言者の都市)」と呼ばれるようになり、略して「メディナ」が定着したとされる。

3622年という年はムハンマドが自ら決めたわけではない

622年をヒジュラ暦の元年と定めたのはムハンマドではなく、第2代カリフのウマルである。ムハンマド没後(632年)に暦の整理が行われ、ヒジュラの年が歴史的出発点として選ばれた。

4ヒジュラの「語呂」を読み解くと……

「むふふ(622)でヒジュラの旅」の622は、む(6)・ふ(2)・ふ(2)と読む。笑い声「むふふ」に見立てた語呂合わせで、数字を体感的に覚えるための工夫。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
ヒジュラの年は622年。語呂は「むふふ(622)でヒジュラの旅」。
啓示を受けた年(610年ごろ)とヒジュラの年(622年)は別々に覚える——混同しやすい頻出ポイント。
移住先はメディナ(ヤスリブ)。メッカではない。
ヒジュラ後にウンマ(イスラム共同体)が成立し、宗教と政治が一体となった共同体の出発点となった。
ヒジュラ暦(イスラム暦)の元年がこの622年であることを押さえる。
語呂クイズ
「むふふ(622)でヒジュラの旅」= ムハンマドがヒジュラ(聖遷)を行うは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ヒジュラとは何ですか?
A. 622年にムハンマドと信者たちがメッカからメディナへ移住した出来事です。アラビア語で「移住」を意味し、日本語では「聖遷」とも訳されます。
Q. なぜメッカを離れてメディナに移ったのですか?
A. メッカの多神教の有力者からの迫害が激しくなったためです。一方、メディナから調停者としての招きがあり、組織的な移住が実現しました。
Q. ヒジュラと啓示の年はどう違いますか?
A. 啓示(最初にアッラーの言葉を受けたとされる出来事)は610年ごろ、ヒジュラは622年です。12年ほどの開きがあります。混同しないよう注意が必要です。
Q. ウンマとは何ですか?
A. ヒジュラ後にメディナで成立したイスラム共同体のことです。血縁や部族ではなく、信仰によって結ばれた共同体を指します。現代でいえば「信仰で結ばれた新しい共同体(国のもと)」とイメージできます。
Q. ヒジュラ暦(イスラム暦)はいつから使われていますか?
A. 622年のヒジュラを元年として定められた暦で、第2代カリフのウマルのもとで整備されました。現在も多くのイスラム圏の国で公式・宗教的に使用されています。
Q. ヒジュラはなぜイスラム史で重要とされるのですか?
A. たんなる居住地の移動でなく、信仰を核とした共同体(ウンマ)が成立した出発点とされるからです。宗教・政治・社会が一体となった共同体の形が生まれ、その後の正統カリフ時代やイスラムの拡大につながりました。
まとめ

622年のヒジュラは、ムハンマドと信者たちのメッカからメディナへの移住という出来事を超えて、イスラム共同体(ウンマ)の成立とイスラム暦の紀元という二重の歴史的意義を持ちます。宗教・政治・社会が一体となった共同体の形がここで生まれ、正統カリフ時代・大征服へとつながりました。試験では「622年=ヒジュラ暦の元年」「啓示(610年)との混同禁止」「移住先はメディナ」の3点を最低限押さえ、「むふふ(622)でヒジュラの旅」の語呂と一緒に記憶しましょう。

編集メモ(ファクト)
ムハンマドの生年は570年説が一般的だが、研究者間で諸説あるため「570年ごろ」と表記した。
啓示の年は610年説が広く使われるが、諸説あるため「610年ごろ」と表記した。
宗教的な評価(奇跡・神の意志など)には言及せず、史実として中立的に記述した。
ヒジュラ暦の制定がウマル主導であるという点は学術的に広く認められている事項として記述した。