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トゥール・ポワティエ間の戦いが起こるのイラスト
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732

トゥール・ポワティエ間の戦いが起こる

カール・マルテル
語呂
覚え方
波に(732)トゥール・ポワティエ
なみに(732)トゥールポワティエ

732年、フランク王国の宮宰(こうさい)カール・マルテルが率いる軍が、イベリア半島(現在のスペイン・ポルトガル)を拠点に北上したウマイヤ朝の軍を、現在のフランス中西部・トゥールとポワティエの間で撃破しました。ウマイヤ朝はおよそ100年かけてアラビア半島から北アフリカ・イベリア半島へと勢力を広げており、この戦いはその北上をフランク軍が食い止めたとされる出来事です。カール・マルテルはこの勝利で名声を得て、息子ピピン3世によるカロリング朝開創、さらに孫のカール大帝(シャルルマーニュ)へ続く王朝の礎を築きました。ただし、この戦いの意義については後世の評価が過大になっている面もあり、当時の史料は限られています。

この記事のポイント

  • 732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルがウマイヤ朝の北上軍をフランス中西部で撃退
  • ウマイヤ朝はアラビア半島→北アフリカ→イベリア半島と約100年かけて拡大してきた
  • カール・マルテルは「マルテル(ハンマー)」の異名を得てフランク貴族社会での権威を固めた
  • この勝利がカロリング家の台頭を後押しし、息子ピピン3世がカロリング朝を開創(751年)
  • 孫にあたるカール大帝(シャルルマーニュ)へとつながる中世ヨーロッパの転換点のひとつ
ここが面白い

「ここで負けていたらヨーロッパの歴史は変わっていた」と言われるが、当時の史料はこの戦いをほぼ記録していない。ヨーロッパを救った戦いか、誇張された神話か。

ここに至るまでの流れ
背景

この戦いを理解するには、ウマイヤ朝がなぜここまで北上してきたか、そしてカール・マルテルとはどのような人物だったかを知る必要があります。

ウマイヤ朝の急速な拡大

661年に成立したウマイヤ朝は、ダマスカス(現在のシリア)を都として西方・東方に勢力を広げました。北アフリカを征服し、711年にジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入。西ゴート王国を滅ぼしてほぼ全域を制圧しました。その後もピレネー山脈を越えてフランク王国領内に侵攻を繰り返しており、730年代には現在のフランス南西部まで勢力を拡大していました。

フランク王国の内情と宮宰制度

当時のフランク王国はメロヴィング朝が続いていましたが、王権は形骸化しており、実権は「宮宰(マヨルドムス)」と呼ばれる宮廷長官が握っていました。カール・マルテルの父ピピン2世(中ピピン)がフランク全土の宮宰権を掌握しており、カール・マルテルはその地位を継いで内部の反乱を制しながら権力を固めていました。

戦いの直接のきっかけ

732年、ウマイヤ朝の総督アブドゥッラフマーン・アル=ガーフィキーが大規模な軍を率いてピレネーを越え、アキテーヌ地方を侵攻しました。アキテーヌ公ウードはカール・マルテルに援軍を求め、フランク軍がこれに応じる形で両軍はトゥールとポワティエの間で対峙しました。

騎馬重装備と歩兵方陣

当時のフランク軍は主に密集した歩兵方陣で戦いました。カール・マルテルは戦後に軍事改革を進め、騎馬を用いた戦闘様式の導入を図ったとされています。ただし、この戦いでの具体的な戦術の詳細は史料が乏しく、不明な点が多く残っています。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

両軍の衝突

≒ 国境紛争における防衛戦

トゥールとポワティエの間の平原でフランク軍とウマイヤ朝軍が激突。フランク軍の密集方陣がウマイヤ朝の騎馬突撃を食い止め、総督アブドゥッラフマーンが戦死したことでウマイヤ朝軍は撤退した。

カール・マルテルの名声確立

≒ 防衛成功による指導者の権威強化

勝利により「マルテル(ハンマー)」の異名が定着し、フランク国内での権威が確立。宮宰の立場ながら事実上のフランク支配者として認められるようになった。

カロリング家台頭の足がかり

≒ 勝利がもたらした政治的資本の蓄積

カール・マルテルの権威が息子ピピン3世に引き継がれ、751年にカロリング朝が正式に開創。さらに孫カール大帝(シャルルマーニュ)が800年に西ローマ皇帝を称するに至る。

前後のできごと
年表
661
ウマイヤ朝成立ムアーウィヤ1世がダマスカスを都としてウマイヤ朝を開始。イスラム勢力が組織的な帝国体制を整える。
711
イベリア半島侵入ウマイヤ朝軍がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入。西ゴート王国を滅ぼし半島をほぼ制圧。
714
カール・マルテル、宮宰に就任父ピピン2世の死後、反乱を制してフランク全土の宮宰権を掌握。実権を握る。
732
トゥール・ポワティエ間の戦いフランク軍がウマイヤ朝のアブドゥッラフマーン軍を撃退。総督が戦死し、ウマイヤ朝軍は退却。
741
カール・マルテル死去カール・マルテルが死去。息子のカールマンとピピン3世が宮宰職を分け合う。
751
カロリング朝開創ピピン3世がメロヴィング朝最後の王を廃位し、カロリング朝を開始。ローマ教皇に承認された。
800
カール大帝、西ローマ皇帝戴冠カール・マルテルの孫カール大帝(シャルルマーニュ)がローマで教皇から西ローマ皇帝位を授けられた。
結果とその後
結果
ウマイヤ朝のフランク王国本土への侵攻が食い止められ、その後ウマイヤ朝は740年代以降に内紛と後継王朝(アッバース朝)の台頭で弱体化し、ピレネー以北への本格的な進出は行われなかった。
カール・マルテルの権威がフランク貴族社会で高まり、息子ピピン3世によるカロリング朝開創(751年)と、孫カール大帝の西ヨーロッパ統一(800年)への基盤が形成された。
この戦いが「西ヨーロッパのキリスト教世界を救った」という評価は19世紀以降に強調されたものであり、当時の史料は極めて限られている。戦いの規模や詳細については現在も研究が続いている。
登場人物
人物

カール・マルテル

フランク王国の宮宰

「マルテル(ハンマー)」の異名を持つ。宮宰の立場でフランクを実質的に支配し、この戦いの勝利でカロリング家台頭の礎を築いた。息子がピピン3世、孫がカール大帝。

アブドゥッラフマーン・アル=ガーフィキー

ウマイヤ朝のイベリア半島総督

フランク領への大規模侵攻を指揮したが、この戦いで戦死。その死がウマイヤ朝軍の撤退を招いた。

ウード(エウドン)

アキテーヌ公

ウマイヤ朝の侵攻を受けてカール・マルテルに援軍を求めた。当初はカール・マルテルと対立関係にあったが、共通の脅威の前に協力した。

ピピン3世(小ピピン)

カール・マルテルの息子、カロリング朝初代王

751年にメロヴィング朝最後の王を廃位し、カロリング朝を開始。ローマ教皇との提携関係を深めた。

カール大帝(シャルルマーニュ)

カール・マルテルの孫、フランク王

800年に西ローマ皇帝位を受け西ヨーロッパの大部分を支配。カール・マルテルから始まるカロリング家の権威を頂点へ引き上げた人物。

キーワード解説
用語
宮宰(マヨルドムス)
フランク王国の宮廷長官。メロヴィング朝後期には王権が形骸化し、宮宰が実質的な政治・軍事の実権を握った。カール・マルテルはその最も強力な宮宰のひとり。
ウマイヤ朝
661年に成立したイスラム王朝。ダマスカスを都とし、北アフリカ・イベリア半島・中央アジアへと勢力を拡大した。750年にアッバース朝に取って代わられた。
カロリング朝
751年にピピン3世が開始したフランク王国の王朝。カール・マルテルの子孫が続けた王朝で、カール大帝の時代に最盛期を迎えた。
メロヴィング朝
クローヴィス1世が5世紀末に創始したフランク王国の最初の王朝。751年にカロリング朝に取って代わられた。後期は王権が形骸化し、宮宰が実権を握っていた。
西ゴート王国
イベリア半島を支配していたゲルマン系の王国。711年にウマイヤ朝の侵入によって滅亡した。
もっと知りたい
豆知識

1「マルテル(ハンマー)」という異名の由来

「カール・マルテル」の「マルテル」はラテン語・フランク語で「ハンマー」を意味する。敵を叩き潰すような戦いぶりからついた異名とされるが、この呼称が同時代の史料に登場するわけではなく、後世の伝承が混じっている可能性がある。

2当時の史料は驚くほど少ない

この戦いに関する同時代の一次史料はフランク側・イスラム側ともに極めて少なく、戦いの規模・両軍の兵数・正確な場所さえ定まっていない。「西ヨーロッパを救った決戦」という評価は主に19世紀ヨーロッパの歴史家によって強調されたものであり、当時の人々がこの戦いをどれほど重大視していたかは不明な点が多い。

3ウマイヤ朝はその後も20年間イベリア半島を保持した

この戦いの後もウマイヤ朝勢力はイベリア半島に留まり続け、最終的にイベリア半島からイスラム勢力が撤退を完了する「国土回復運動(レコンキスタ)」は15世紀まで続いた。1492年のグラナダ陥落がその終点とされる。

4カール・マルテルは正式な「王」ではなかった

カール・マルテルは生涯「宮宰」であり続け、王位には就かなかった。しかし実質的な政治・軍事の権力はメロヴィング朝の王を超えていた。王位に就いたのは息子のピピン3世の代になってからである。

5この戦いの場所も正確には特定されていない

「トゥールとポワティエの間」とされるが、現在のフランスのどの地点で戦われたかは史料からは確定できない。地元の伝承や後世の研究によりいくつかの候補地が挙げられているが、定説はない。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は732年。語呂は「波に(732)トゥール・ポワティエ」。
勝者はフランク王国の宮宰カール・マルテル。「王」ではなく「宮宰」である点に注意。
相手はウマイヤ朝(イスラム勢力)。イベリア半島を拠点に北上してきた軍。
カール・マルテル→息子ピピン3世(カロリング朝開始751年)→孫カール大帝(800年西ローマ皇帝)の系譜を押さえる。
この戦いの「意義の過大評価」は試験には出にくいが、史料の限界を知っておくと論述で使える。
語呂クイズ
「波に(732)トゥール・ポワティエ」= トゥール・ポワティエ間の戦いが起こるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. トゥール・ポワティエ間の戦いはなぜ重要とされるのですか?
A. ウマイヤ朝(イスラム勢力)のフランク王国本土への侵攻を食い止めた戦いとして、西ヨーロッパの歴史的転換点のひとつとされています。ただし、この評価は後世に強調されたものであり、当時の史料は限られています。
Q. カール・マルテルは王様でしたか?
A. いいえ、王ではなく「宮宰(マヨルドムス)」という宮廷長官の立場でした。メロヴィング朝の王が形骸化していたため、宮宰が実質的な権力を握っていました。王位に就いたのは息子のピピン3世です。
Q. ウマイヤ朝はどこから来たのですか?
A. アラビア半島を発祥とするイスラム勢力が661年にウマイヤ朝を建て、ダマスカスを都として拡大しました。北アフリカを経て711年にイベリア半島(現在のスペイン・ポルトガル)に侵入し、そこを拠点にピレネー山脈を越えてフランク領内に侵攻してきました。
Q. カール大帝とカール・マルテルはどういう関係ですか?
A. カール・マルテルはカール大帝の祖父にあたります。カール・マルテル→息子ピピン3世→孫カール大帝(シャルルマーニュ)という3代の系譜です。
Q. 「マルテル」とはどういう意味ですか?
A. フランク語・ラテン語で「ハンマー」を意味します。強力な戦いぶりを表す異名とされていますが、後世に付けられた呼称です。
Q. この戦いの後、ウマイヤ朝はイベリア半島から撤退したのですか?
A. 撤退しませんでした。ウマイヤ朝はその後もイベリア半島に留まり続け、イスラム勢力のイベリア半島支配は「国土回復運動(レコンキスタ)」を経て15世紀まで続きました。1492年のグラナダ陥落がその終点です。
まとめ

732年のトゥール・ポワティエ間の戦いは、フランク王国の宮宰カール・マルテルがウマイヤ朝の北上軍を撃退した出来事です。カロリング家台頭の礎となり、息子ピピン3世のカロリング朝開創(751年)、孫カール大帝の西ヨーロッパ統一(800年)へとつながる歴史的転換点のひとつです。試験では「732年・カール・マルテル・宮宰・ウマイヤ朝を止めた戦い」の4点と、カロリング家3代の系譜を押さえることが最重要です。「波に(732)トゥール・ポワティエ」の語呂で年号を定着させましょう。

編集メモ(ファクト)
「トゥール・ポワティエ間の戦い」は「ポワティエの戦い」と呼ばれることもあるが、同名の戦い(1356年の英仏百年戦争中の戦闘)と区別するため、本ページでは732年の戦いの一般的な呼称「トゥール・ポワティエ間の戦い」を使用した。
両軍の兵数・正確な戦場の場所・戦いの詳細については一次史料が乏しく、現代の研究でも確定していない。過大評価の問題を含めて史実として中立的に記述した。
ウマイヤ朝およびイスラム勢力に関する記述は宗教的評価を含まず、勢力拡大の歴史的事実として中立的に記述した。
ウマイヤ朝の成立は661年(ムアーウィヤ1世)であり、timeline・本文ともにその年で統一している。