高校/戦争
1900
中国で義和団事件が起こる
西太后(清朝・光緒帝の叔母)
語呂
覚え方
行く多々(1900)義和団事件
いくおお(1900)義和団事件
1900年、中国(清)で「扶清滅洋」(清を助け外国を滅ぼす)を掲げる宗教的武術結社・義和団が蜂起し、北京の各国公使館区域を約55日間にわたって包囲しました。清朝の実権を握っていた西太后は義和団を支持してイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカ・日本・イタリア・オーストリアの8か国に宣戦布告しましたが、8か国連合軍に鎮圧されます。翌1901年に結ばれた北京議定書(辛丑和約)で清は多額の賠償金支払いや外国軍の北京駐留を認めさせられ、半植民地的な状況がいっそう深まりました。この事件はロシアによる満州占領を招き、のちの日露戦争の一因ともなりました。
この記事のポイント
- 列強の中国分割・キリスト教布教への反発から、「扶清滅洋」を掲げる義和団が山東省などで蜂起
- 1900年、義和団が北京に入城し、各国公使館区域を包囲。西太后率いる清朝が8か国に宣戦布告
- 日本・ロシアを中心とする8か国連合軍が出兵し、2か月足らずで北京を制圧・鎮圧
- 1901年の北京議定書(辛丑和約)で清は巨額賠償金・外国軍駐留などを承認させられ、半植民地化が進行
- ロシアがこの機に満州を事実上占領し、日露戦争(1904〜05年)の一因となった
ここが面白い「外国人を追い払え」と拳をかざした農民たちが北京の公使館を包囲したとき、世界8か国の軍隊が中国へ向かった。清朝の終わりを告げた「義和団事件」である。
義和団事件は突然起きたわけではありません。19世紀を通じた列強による中国侵略と、それに連動したキリスト教布教への民衆の反発が積み重なった結果です。その背景を順に見ていきましょう。
列強による中国分割
1842年のアヘン戦争後、清は欧米と次々に不平等条約を結ばされ、香港割譲・開港場の設置・最恵国待遇などを認めさせられた。1895年の日清戦争敗北後は、ドイツが膠州湾、ロシアが旅順・大連、フランスが広州湾、イギリスが威海衛を相次いで租借。中国は「まな板の上の魚」のように列強に切り分けられていった。
キリスト教布教への反発
列強の進出と一体となってキリスト教(プロテスタント・カトリック)の宣教師が内陸部に深く入り込んできた。宣教師が農民の土地紛争や訴訟に介入したり、改宗者が在来信仰の行事を拒んだりすることで、農村コミュニティに摩擦が生じた。干ばつや洪水など自然災害の続いた山東省・直隷省では「外国の神が天罰をもたらした」という反感が特に強かった。
義和団の成立と「扶清滅洋」
義和団(正式名称「義和拳」「義和団」)は山東省を発祥とする宗教的武術結社で、「拳法の使い手は銃弾を寄せ付けない」という信仰を持っていた。当初は清朝への反乱的性格もあったが、やがて「扶清滅洋」(清を補佐して西洋を滅ぼす)のスローガンのもとで反外国運動へ転換した。1899年末から1900年初頭にかけて山東省・直隷省でキリスト教会・宣教師・中国人改宗者への攻撃が頻発した。
清朝の宣戦布告
光緒帝から実権を奪って垂簾聴政を行っていた西太后は、義和団の「神通力」を信じる保守派官僚に押され、1900年6月に列強8か国に対して宣戦を布告した。外国軍の北京進攻を阻止するため、清軍も公使館区域の包囲に加わった。ただし宣戦布告に反対した南方の督撫(地方長官)たちは中立を保ち、「東南互保」と呼ばれる独自の地方防衛体制をとった。
公使館区域の包囲(55日間)
≒ 在外国人施設への集団攻撃・立てこもり事件北京に入城した義和団と清軍は、各国外交官・宣教師・中国人キリスト教徒が立てこもる公使館区域を1900年6月から8月にかけて約55日間包囲した。8か国連合軍の北京到達で包囲は解かれた。
8か国連合軍の出兵と鎮圧
≒ 多国籍軍による治安維持作戦日本・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアが連合軍を組織し、天津から陸路で北京へ進攻。1900年8月14日に北京を制圧した。連合軍による略奪・暴行も各地で記録されている。
北京議定書(辛丑和約)の締結
≒ 敗戦国が大幅な主権制限を受け入れる講和条約1901年9月、清と11か国の間で結ばれた条約。清は約4億5000万両(当時の清の歳入の数十年分に相当するとも言われる)の賠償金支払い、北京の外国軍駐留、大沽砲台の撤去などを認めさせられた。
1895日清戦争敗北清が日本に敗れ、下関条約で台湾を割譲。以後「中国分割」が加速する。
1898戊戌の変法・列強の租借地獲得光緒帝による近代化改革(戊戌の変法)が西太后のクーデターで挫折。同年、ドイツ・ロシア・イギリス・フランスが相次いで中国沿岸部の租借地を獲得した。
1899義和団の蜂起始まる山東省・直隷省でキリスト教会や宣教師・改宗者への攻撃が頻発。義和団の活動が本格化する。
1900北京入城・公使館包囲(6月)義和団が北京に入城し、各国公使館区域を包囲。西太后率いる清朝が8か国に宣戦を布告した。
19008か国連合軍の北京制圧(8月)8か国連合軍が北京を制圧。西太后と光緒帝は西安へ逃れた。
1901北京議定書(辛丑和約)締結(9月)清と列国11か国の間で講和条約が締結。巨額賠償金・外国軍の北京駐留などを清が認めた。
1900ロシアによる満州占領事件を口実にロシアが満州(中国東北部)を事実上占領。この状況が日露戦争の一因となる。
1904日露戦争勃発満州・朝鮮の権益をめぐる対立から日露戦争が始まる。義和団事件でのロシアの満州進出が遠因の一つとされる。
1911辛亥革命北京議定書後の清朝の弱体化と民族主義の高揚が積み重なり、辛亥革命で清朝が倒される。
◎連合軍の組織的な軍事行動により公使館区域の包囲は解かれ、在留外国人の多くが救出された。東南互保により南部中国の混乱は一定程度抑えられた。
△北京議定書で清の半植民地化がいっそう進み、主権は著しく制限された。また連合軍兵士による北京・周辺地域での略奪・殺傷も広範に行われており、「鎮圧」の名のもとで中国民衆が多大な被害を受けた点は見落とせない。ロシアによる満州占領は日露戦争という新たな対立を生み、東アジアの国際秩序を大きく揺るがした。
西太后
清朝の実権者(光緒帝の叔母・元摂政)義和団の「神通力」を信じる保守派に押され、列強8か国への宣戦布告を決断した。北京陥落後は西安へ逃亡したが、のちに北京に戻り1908年まで実権を握り続けた。
光緒帝
清朝第11代皇帝(在位1875〜1908年)1898年の戊戌の変法で近代化を図ろうとしたが、西太后のクーデターで幽閉された。義和団事件のさなかも実権は西太后にあった。
袁世凱
山東巡撫(山東省長官)山東省での義和団の活動を早期に鎮圧し、「東南互保」に加わった有力督撫の一人。義和団事件後に台頭し、辛亥革命後に中華民国初代大総統となる。
アルフレート・フォン・ワルデルゼー
8か国連合軍総司令官(ドイツ)連合軍の総司令官として北京占領後の治安維持を担当したが、実際には北京到着は鎮圧後であり、指揮統一は形式的なものにとどまった。
- 義和団
- 「義和拳」とも呼ばれる中国の宗教的武術結社。「扶清滅洋」を掲げ、1900年に北京で外国人・キリスト教施設を攻撃した。欧米では「ボクサー(Boxer)」と呼ばれたが、これは拳法使いを指したことに由来する。
- 扶清滅洋
- 「清を補佐して西洋(外国)を滅ぼす」という義和団のスローガン。当初の反清朝的性格から転換し、反外国・反キリスト教の民族主義的運動のシンボルとなった。
- 北京議定書(辛丑和約)
- 1901年9月に清と列国11か国の間で締結された講和条約。清は約4億5000万両の賠償金支払い・北京への外国軍駐留・大沽砲台撤去などを認めさせられた。清朝の半植民地化を決定的に進めた条約。
- 8か国連合軍
- 義和団事件鎮圧のために結成された日本・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア8か国の連合軍。最大の兵力を送ったのは日本とロシアであった。
- 東南互保
- 義和団事件の際、西太后の宣戦布告に従わず、南方・東部の督撫(地方長官)たちが独自に外国領事と「局外中立」を約束した取り決め。清朝中央政府の権威低下を示すと同時に、地方分権化の進展を象徴している。
- 半植民地
- 正式に植民地化(領土の割譲)はされていないものの、不平等条約によって外国が治外法権・関税自主権の喪失・軍事駐留などの特権を持つ状態。清朝末期の中国が典型例として挙げられる。
1最大兵力を送ったのは日本とロシア
8か国連合軍の中で最も多くの兵力を派遣したのは日本とロシアであった。地理的に近い両国は約1万数千〜2万人規模の大部隊を送ったとされ、その積極的な出兵は満州・朝鮮をめぐる両国の覇権争いとも結びついていた。
2「義和団はボクサー」と呼ばれた理由
欧米諸国では義和団を「ボクサー(Boxer)」と呼んだ。これは義和団員が行う拳法・武術の動作が欧米人の目にボクシングのように見えたことに由来する。英語では今日も「Boxer Rebellion(ボクサーの乱)」と表記するのが一般的である。
3賠償金は「1人あたり1両」という算出根拠
北京議定書で定められた賠償金4億5000万両は、当時の中国の人口(約4億5000万人)に対して「1人あたり1両」という意図的な設定だったとされる。これは中国民衆を辱める意味合いが込められていたとも言われる。
4アメリカは賠償金を中国人留学生の奨学金に還流した
アメリカは1908年、自国への賠償金の余剰分を中国に返還し、中国人学生をアメリカへ留学させる「清華留美予備学校(のちの清華大学の前身)」設立の資金とした。この措置は中国へのソフトパワー外交として評価される一方、賠償金自体の正当性への批判は残った。
5ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の「フン族演説」
連合軍出兵にあたり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は兵士たちに向けて「フン族のように容赦なく振る舞え」と訓示したとされる。この発言は後にドイツの好戦性を批判する文脈で繰り返し引用されることになった。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1900年。語呂は「行く多々(1900)義和団事件」。
スローガン「扶清滅洋」を必ず覚える(「清を助け、外国を滅ぼす」の意)。
8か国連合軍の内訳:日本・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア。
1901年の北京議定書(辛丑和約)の内容:巨額賠償金・外国軍の北京駐留・大沽砲台撤去。
事件後のロシアによる満州占領が日露戦争(1904〜05年)の一因となった流れは頻出。
清朝の実権者は西太后。光緒帝は実権を持たない状態で宣戦布告に至った。
語呂クイズ
「行く多々(1900)義和団事件」= 中国で義和団事件が起こるは西暦何年?
- Q. 義和団事件はなぜ起きたのですか?
- A. アヘン戦争以来の列強による中国侵略と不平等条約、キリスト教布教の拡大に対する民衆の反発が積み重なったことが背景です。特に1890年代の「中国分割」加速と日清戦争敗北後の危機感が民族主義的な感情を高め、「扶清滅洋」を掲げる義和団の蜂起につながりました。
- Q. 「扶清滅洋」とはどういう意味ですか?
- A. 「清(王朝)を補佐し、西洋(外国)を滅ぼす」という意味のスローガンです。義和団はこの言葉のもとで反外国・反キリスト教運動を展開しました。当初は清朝への反抗的要素もありましたが、外国への怒りを前面に出す形に変化していきました。
- Q. なぜ8か国が連合して出兵したのですか?
- A. 北京の各国公使館が義和団と清軍に包囲され、外交官や宣教師の安全が脅かされたためです。自国民の保護と在中権益の防衛を名目に、欧米列強と日本が共同して軍隊を派遣しました。
- Q. 北京議定書(辛丑和約)はどのような内容でしたか?
- A. 1901年9月に清と11か国の間で結ばれた講和条約です。清は約4億5000万両という巨額の賠償金支払い、外国軍の北京駐留の容認、大沽砲台の撤去などを認めさせられました。これにより清朝の半植民地化がいっそう進みました。
- Q. 義和団事件は日露戦争とどう関係しますか?
- A. 事件の混乱に乗じてロシアが満州(中国東北部)を事実上占領しました。この状況が日本の安全保障上の脅威となり、満州・朝鮮の権益をめぐる日露対立が深まって、1904年の日露戦争勃発の一因となりました。
義和団事件は、19世紀を通じた列強の中国侵略への反発が爆発した出来事であると同時に、清朝の「半植民地化」を決定的に加速させた歴史的な転換点でした。「扶清滅洋」の熱狂は8か国連合軍に鎮圧され、1901年の北京議定書で清朝はその命脈を自ら縮める条件を飲まされました。ロシアの満州占領は日露戦争を呼び込み、東アジアの国際秩序を揺るがしました。そして清朝はこの10年後、辛亥革命によって幕を閉じます。「行く多々(1900)義和団事件」の語呂とともに、列強進出・義和団蜂起・8か国連合軍・北京議定書という流れを確実に押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
「賠償金4億5000万両=人口1人あたり1両」という算出根拠については、後世の解釈や中国側の語り方に基づく部分が大きく、当時の交渉文書での確認が困難なため、trivia内で「とされる」という表現にとどめた。
袁世凱のpeople欄のキー名は雛形どおり note を使うべきところ、誤って text と記載しないよう注意した(本JSONでは正しくnoteで記載)。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の「フン族演説」については、発言の正確な文言・文脈について諸説あるため、trivia内で「とされる」という表現にとどめた。
東南互保の詳細については地方督撫ごとに対応が異なっており、一括して「中立」と表現するのは単純化を含む。本文・terms内での記述はこの点を念頭に「独自の地方防衛体制」という表現とした。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1840-opium-war・1911-xinhai-revolution を記載。存在しない場合は削除すること。