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高校/戦争
1899

南アフリカ戦争(ボーア戦争)が起こる

イギリス/ブール人
語呂
覚え方
嫌悔々(いやくく)(1899)ボーア戦争
いやくく(1899)南アフリカ戦争

1899年10月、南アフリカでイギリスとブール人(ボーア人・アフリカーナー)が建てた二つの共和国――トランスヴァール共和国とオレンジ自由国――との間に戦争が始まりました(南アフリカ戦争、またはボーア戦争)。直接の原因は金・ダイヤモンドという莫大な地下資源の利権でしたが、根底にはアフリカ大陸を縦断してケープからカイロまでを制覇しようとするイギリスの帝国主義的野心がありました。大軍を送り込んだイギリスはブール人の巧みなゲリラ戦に苦しめられ、一般住民を強制収容所に押し込めるという非人道的な手段をとった末、1902年5月に勝利しました。この戦争はイギリスの帝国主義の絶頂と同時にその矛盾を世界にさらした出来事として、近代史の転換点に位置づけられています。

この記事のポイント

  • 1899年、イギリスがトランスヴァール共和国・オレンジ自由国(ブール人国家)に宣戦。南アフリカ戦争(ボーア戦争)が始まる
  • 背景には金・ダイヤモンド利権の争奪と、イギリス帝国主義(ケープ植民地相チェンバレン・実業家セシル・ローズ)の拡張政策があった
  • ブール人のゲリラ戦に苦しんだイギリスは、一般住民を強制収容所(コンセントレーション・キャンプ)に収容するという過酷な手段をとった
  • 1902年のファリーニング条約でイギリスが勝利し、両共和国を併合。後に南アフリカ連邦(1910年)が成立した
  • 多額の戦費と国際的な批判はイギリス帝国主義の限界を示し、後のアパルトヘイトにつながる人種差別の火種を残した
ここが面白い

「世界最強」と呼ばれたイギリス帝国が、アフリカの農民たちのゲリラ戦に3年間も苦しめられた――その戦争の影に、金とダイヤモンドをめぐる欲望があった。

ここに至るまでの流れ
背景

南アフリカ戦争は突然起きた戦争ではありません。17世紀のオランダ系入植者の歴史から始まり、イギリスの植民地拡大と金・ダイヤモンドの発見が絡み合った末に生まれた衝突でした。その背景を順に整理しましょう。

ブール人の歴史とグレート・トレック

ブール人(ボーア人・アフリカーナー)は17世紀にオランダ東インド会社がケープ植民地に送り込んだオランダ系・フランス系などのヨーロッパ系移民の子孫です。1806年にイギリスがケープ植民地を奪うと、イギリスの支配に不満を持ったブール人の多くが1830〜40年代に内陸部へ大移動(グレート・トレック)し、トランスヴァール共和国(南アフリカ共和国)とオレンジ自由国を建国しました。

金とダイヤモンドの発見と利権争い

1867年にオレンジ自由国周辺でダイヤモンドが、1886年にはトランスヴァールのウィトウォータースラントで世界最大級の金鉱床が発見されました。英国系の鉱山主(ウィトランダー)が大挙して流入し、経済的実権を握るようになった一方、ブール人政府は彼らへの参政権を拒否しました。イギリスはこれを不当な扱いと主張し、内政干渉の口実としました。

セシル・ローズとジェームソン侵入事件

ケープ植民地首相でもあった実業家セシル・ローズは「アフリカ縦断支配」の野望を持ち、1895〜96年にジェームソン率いる部隊をトランスヴァールに侵入させて内部反乱を扇動しようとしましたが(ジェームソン侵入事件)、失敗に終わりました。この事件はブール人の警戒心を高め、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がトランスヴァールへ祝電を送るなど国際問題にも発展しました。

チェンバレンとブラインドリバー前夜

植民地相ジョゼフ・チェンバレンは強硬姿勢でウィトランダーの権利問題の解決を迫り、交渉は決裂しました。1899年10月、トランスヴァールとオレンジ自由国がイギリスに最後通牒を発し、イギリスがこれを拒否したことで開戦となりました。当初はブール人側が攻勢に出て、イギリス軍が複数の都市で包囲される事態も起きました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

金とダイヤモンドをめぐる帝国主義戦争

≒ 資源をめぐる大国と地域勢力の衝突

表向きはウィトランダーの参政権問題だったが、実質はイギリスが豊富な鉱山資源を持つ地域を直接支配するために仕掛けた戦争。資源利権と植民地支配の典型例。

強制収容所の導入と国際的批判

≒ 非戦闘員への人権侵害が国際社会に問われた先例

イギリスはブール人のゲリラ戦を封じるため、農村を焼き払い、一般住民(女性・子供を含む)を強制収容所に閉じ込めた。劣悪な環境で約2万8千人が死亡し、国内外で激しい非難を浴びた。

イギリス帝国主義の絶頂と翳り

≒ 強大な国でも無制限の拡張は維持できないという教訓

イギリスは45万人超の兵力を投入し勝利したが、戦費は巨額に上り、国際的な孤立を招いた。帝国の過剰拡張という矛盾が表面化し、20世紀の脱植民地化の伏線となった。

前後のできごと
年表
1867
ダイヤモンド発見オレンジ自由国周辺でダイヤモンドが発見され、英国系鉱山資本が南アフリカに流入し始める。
1886
金鉱発見トランスヴァールのウィトウォータースラントで世界最大級の金鉱床が発見。英国系ウィトランダーが大量移住し、ブール人との摩擦が激化する。
1895
ジェームソン侵入事件セシル・ローズの指示でジェームソン率いる部隊がトランスヴァールに侵入しクーデターを企図。失敗し、ブール人の反英感情が高まる。
1899
開戦(10月)交渉決裂後、トランスヴァールとオレンジ自由国がイギリスに最後通牒。イギリスが拒否し、10月11日に戦争が始まる。当初ブール人側が優勢。
1900
イギリス軍反攻・主要都市占領ロバーツ元帥率いる大軍が到着し、プレトリアなど主要都市を占領。ブール人は正規戦から遊撃(ゲリラ)戦に切り替える。
1901
強制収容所の拡大イギリス軍はゲリラ戦への対策として農村を焼き払い、ブール人の一般住民を強制収容所に収容。劣悪な衛生環境で死者が続出し国際的批判を浴びる。
1902
ファリーニング条約・終戦(5月)1902年5月31日、ファリーニング条約でブール人両共和国がイギリスへの服従を認め終戦。両共和国はイギリス植民地となる。
1910
南アフリカ連邦成立ケープ植民地・ナタール・トランスヴァール・オレンジ川植民地の4地域が合同して南アフリカ連邦が成立。ブール人も自治権を得るが、黒人・有色人種は政治から排除された。
結果とその後
結果
イギリスが勝利し、トランスヴァール・オレンジ自由国を併合。1910年には南アフリカ連邦が成立した。ブール人は内政上の自治権を認められ、後に連邦政府を主導していくことになる。
強制収容所での大量死は国際的な非難を招き、イギリス国内でも帝国主義政策への反省が生まれた。黒人・有色人種は両者の戦争から排除されたまま無権利状態に置かれ続け、これがアパルトヘイト体制(1948年〜)の歴史的な伏線となった。戦費は当時のイギリス財政に深刻な打撃を与えた。
登場人物
人物

セシル・ローズ

ケープ植民地首相・ダイヤモンド王

ド・ビアス社を設立しダイヤモンド利権を独占した実業家。ケープ首相も務め「アフリカ縦断支配(ケープからカイロへ)」を掲げた。ジェームソン侵入事件で失脚したが、帝国主義的拡張の象徴的人物。

ジョゼフ・チェンバレン

イギリス植民地相

強硬な帝国主義政策を推進し、ウィトランダーの権利を名目にトランスヴァールへ圧力をかけた。開戦を主導した政治家の一人として批判を受けた。

ポール・クリューガー

トランスヴァール共和国大統領

オランダ系移民の子孫でブール人の民族的指導者。イギリスの圧力に抵抗したが、戦争末期に海外へ亡命した。ヨーロッパでイギリス帝国主義への批判を訴えた。

エミリー・ホブハウス

イギリスの社会活動家

強制収容所の実態を現地調査してイギリス議会に報告し、劣悪な環境を告発した。彼女の活動が国内世論に大きな影響を与え、収容環境の改善につながった。

キーワード解説
用語
ブール人(ボーア人・アフリカーナー)
17世紀にケープ植民地に入植したオランダ系・フランス系などのヨーロッパ系移民の子孫。アフリカーンス語を話す。19世紀にグレート・トレックでトランスヴァールとオレンジ自由国を建国した。
帝国主義
19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米列強が軍事力・経済力を背景にアジア・アフリカに植民地を広げた政策・思想。南アフリカ戦争はイギリス帝国主義の最大の軍事行動の一つ。
強制収容所(コンセントレーション・キャンプ)
イギリスがブール人ゲリラを孤立させるために設置した施設。一般住民(女性・子供を含む)を強制的に収容した。食料・衛生状態が劣悪で約2万8千人のブール人が死亡。英語の concentration camp の語が広く使われるようになった出来事。
ゲリラ戦(遊撃戦)
正規の軍隊が占領した地域で少人数の部隊が奇襲・破壊工作を繰り返す戦術。ブール人は正規戦に敗れた後もゲリラ戦を展開し、イギリス軍を大いに苦しめた。
ファリーニング条約(1902年)
1902年5月31日に締結された南アフリカ戦争の講和条約。ブール人の両共和国がイギリスへの服従を認め、イギリス植民地となることを確認した。ブール人側にはオランダ語(アフリカーンス語)の教育権などが認められた。
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豆知識

1「コンセントレーション・キャンプ」という言葉の由来

強制収容所を意味する英語 concentration camp が広く使われるようになったのは、この南アフリカ戦争がきっかけだとされる。ブール人の一般住民を一か所に「集中(concentrate)」させて収容した施設の呼称が広まった。後にナチス・ドイツの収容所にも同じ言葉が使われたことで、この語には非常に重い歴史的意味が加わっている。

2日本は局外中立を宣言した

南アフリカ戦争が始まると、日本政府は局外中立を宣言した。一方で当時の日本国内では、アジア・アフリカの有色人種を支配する白人帝国主義への批判が高まり、ブール人への同情論も広まった。この戦争はその3年後の日露戦争(1904〜05年)への世論形成にも間接的に影響したとされる。

3イギリスは45万人超を投入した

イギリスが動員した兵力はカナダ・オーストラリア・ニュージーランドなど植民地からの援軍を含めて45万人を超え、当時最大規模の植民地戦争だった。一方のブール人兵力は最大でも約8万7千人程度。この数的優位にもかかわらずイギリスは3年近く苦戦した。

4セシル・ローズの遺産が今も残る

セシル・ローズが設立した奨学金制度「ローズ奨学金(Rhodes Scholarship)」は現在も世界最古・最大規模の国際奨学金の一つとして続いている。一方で近年は植民地主義的な遺産への批判(Rhodes Must Fall運動)が南アフリカや英国の大学で起き、銅像撤去などが議論されている。

5ゲリラ戦の教訓が近代軍事戦略に影響した

ブール人のゲリラ戦はその後の近代的な非正規戦・反乱鎮圧作戦(COIN作戦)の研究に大きな影響を与えた。少数の住民兵力が大軍を長期間消耗させられるという教訓は、20世紀のベトナム戦争やアフガニスタン紛争にも通じる普遍的な問いを提示した。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1899年。語呂は「嫌悔々(いやくく)(1899)ボーア戦争」。
戦争の当事者:イギリス vs トランスヴァール共和国・オレンジ自由国(ブール人=アフリカーナー・ボーア人)。
背景の核心:金・ダイヤモンドの利権争い+イギリスの帝国主義的拡張(「ケープからカイロへ」)。
強制収容所(コンセントレーション・キャンプ)の設置がイギリスへの国際的批判を招いた点は頻出。
戦後:1902年ファリーニング条約でイギリスが勝利。1910年に南アフリカ連邦が成立(後のアパルトヘイトの伏線)。
語呂クイズ
「嫌悔々(いやくく)(1899)ボーア戦争」= 南アフリカ戦争(ボーア戦争)が起こるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ボーア戦争と南アフリカ戦争はどう違うのですか?
A. 同じ戦争の呼び方です。「ボーア戦争」は相手のブール人(ボーア人)の名前からきた旧来の呼称で、「南アフリカ戦争」はより中立的な現在の一般的呼称です。教科書によって表記が異なります。
Q. なぜイギリスは苦戦したのですか?
A. ブール人は自分たちの土地をよく知る農民兵で、少数精鋭のゲリラ戦(奇襲・鉄道破壊など)を展開しました。広大な草原地帯での遊撃戦は、正規軍編成のイギリス軍が最も不得手とするものでした。
Q. 強制収容所ではどれほどの被害が出たのですか?
A. ブール人の民間人(主に女性・子供)が収容された強制収容所では、食料不足・疾病・劣悪な衛生環境により約2万8千人が死亡したとされます。黒人アフリカ人向けの収容所でも多数の死者が出ました。
Q. この戦争が現在の南アフリカに与えた影響は何ですか?
A. 戦後に成立した南アフリカ連邦(1910年)では、白人(イギリス系とブール人)が政治権力を独占し、黒人・有色人種は排除されました。これが後のアパルトヘイト(人種隔離政策、1948〜1991年)の歴史的背景の一つになりました。
Q. 日本でこの戦争はどう受け止められましたか?
A. 当時の日本では、大国イギリスに立ち向かうブール人に同情する声が多く、新聞などでも広く報道されました。帝国主義的な大国の侵略に対する小国の抵抗という構図が、日本の対露強硬論とも重なって受け取られた側面がありました。
まとめ

南アフリカ戦争は、イギリス帝国主義が金とダイヤモンドの利権を求めて引き起こした19世紀最後の大規模植民地戦争でした。世界最強の軍隊が農民兵のゲリラ戦に苦しめられ、強制収容所という非人道的手段を採ったことは、帝国主義の矛盾を世界にさらしました。「嫌悔々(1899)ボーア戦争」の語呂とともに、戦争の背景(金・ダイヤモンド利権・帝国主義)、強制収容所の国際的批判、戦後の南アフリカ連邦成立(1910年)とアパルトヘイトへの流れをセットで押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
死者数(強制収容所での約2万8千人)は研究によって数値に幅があるため、「約2万8千人」と表記した。
「コンセントレーション・キャンプ」の語源については諸説あるが、南アフリカ戦争で広く定着したという説が有力なためその形で記述した。
アパルトヘイトとの関連は直接の因果関係として記述せず、「歴史的伏線・火種」として表現した。
related は指定の 1884-berlin-conference・1869-suez-canal のみ記載。