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1885
インド国民会議が発足する
インドの知識人たち
語呂
覚え方
嫌、母後(いやはご)(1885)国民会議
いやはご(1885)インド国民会議
1885年、イギリスの植民地支配が続くインドで、教育を受けたインド人知識人たちがボンベイ(現在のムンバイ)に集まり、インド国民会議を発足させました。当初はイギリスの支配を認めたうえで、インド人エリートの要望をイギリス側に伝えることを目的とした穏健な団体でした。しかし、イギリスの抑圧が続くにつれて民族運動・独立運動の中心組織へと変貌し、20世紀にはガンディーやネルーの指導のもとで非暴力・不服従運動を展開。1947年のインド独立を成し遂げました。独立後のインドの主要政党「国民会議派」の源流でもあり、世界史上最大級の反植民地運動の出発点となった出来事です。
この記事のポイント
- 1885年、ボンベイ(現ムンバイ)でインドの知識人たちによりインド国民会議が発足
- 当初はイギリス支配を認めたうえでインド人エリートの意見をイギリスに伝える穏健な組織だった
- 1905年のベンガル分割令への反発を機に、スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)を掲げて反英色を強めた
- 20世紀にはガンディーとネルーが指導者となり、非暴力・不服従運動でインド独立(1947年)を実現
- 独立後のインドの主要政党「国民会議派」の源流であり、植民地独立運動の象徴的存在
ここが面白い「自分たちの声をイギリスに届けよう」――植民地支配に苦しむインドの知識人たちが集まり、1885年に生まれたひとつの組織が、やがて世界最大の独立運動を率いることになった。
インド国民会議の発足は突然起きたことではありません。イギリスによる植民地支配の歴史と、その支配に対するインド人の意識の変化という積み重ねの末に生まれた出来事です。その背景を順に見ていきましょう。
イギリスによるインド支配の確立
イギリスは東インド会社を通じてインドへの進出を続け、1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を鎮圧した後、1858年にムガル帝国を滅ぼしてインドを直接統治下に置きました。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるインド帝国が成立。インドはイギリスの植民地として原料の供給地・製品の市場とされ、インド産の繊維産業などは打撃を受けました。
インド人知識人層の台頭
イギリスは植民地を効率的に統治するため、インド人にも英語教育を施し、下級官吏として活用しました。この結果、弁護士・医師・教師・ジャーナリストなど英語を話す知識人層が育ちました。彼らはイギリスの議会政治や自由主義思想を学ぶ一方、インド人が政策決定の場から排除されていることへの不満を強め、自分たちの声を政治に反映させる組織を求めるようになりました。
インド国民会議の創設
1885年12月、ボンベイ(現ムンバイ)でインド国民会議の第1回大会が開かれました。初代会長にはウォメシュ・チャンドラ・ボネルジーが就き、約70名の代表が参加しました。発足を支援したのはイギリス人官僚アラン・オクタヴィアン・ヒュームで、インド人の不満を合法的な議論の場に向けるガス抜きの狙いもあったとされています。当初の要求は立法参事会へのインド人参加拡大・文官試験の改善など、穏健なものでした。
民族運動への転換
20世紀に入るとイギリスの強権的な政策が続き、国民会議は急進化していきます。1905年のベンガル分割令(民族運動弱体化が目的とされる)に激しく反発したインド人は、1906年のカルカッタ大会でスワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・国民教育・英貨排斥の4方針を採択しました。この転換が後のガンディーによる非暴力・不服従運動、そしてインド独立への道を開くことになります。
インド人知識人の政治参加の場
≒ 市民が政府に意見を言える議会や政党植民地下で政策決定から排除されていたインド人知識人が、要望をまとめてイギリス当局に伝えるための組織。当初は穏健な請願活動が中心だった。
民族運動・独立運動の中心組織
≒ 政権交代を目指す野党・国民政党イギリスの抑圧が続くにつれ、スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治・独立)を掲げる民族運動の司令塔へと発展。ガンディー・ネルーが率いた非暴力運動の舞台となった。
独立後インドの主要政党の源流
≒ 現在も続く政党の創設母体1947年のインド独立後、国民会議は政党「国民会議派(インディアン・ナショナル・コングレス)」として存続。初代首相ネルーをはじめ長くインド政治の中心を担った。
1857インド大反乱インド兵(セポイ)を主力とする大規模な反乱が発生。イギリスはこれを鎮圧し、東インド会社による統治を廃止した。
1858ムガル帝国滅亡イギリスがムガル帝国を解体し、インドを王室の直接統治下に置く。インドはイギリスの植民地として正式に組み込まれた。
1877インド帝国成立ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるインド帝国が正式に成立。インドへの支配体制が確立された。
1885インド国民会議発足12月、ボンベイ(現ムンバイ)で第1回大会が開催され、インド国民会議が発足。約70名の代表が参加した。
1905ベンガル分割令総督カーゾンがベンガルを宗教別に二分割。民族運動の分断が目的とされ、インド人の激しい反発を招いた。
1906カルカッタ大会国民会議カルカッタ大会でスワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・国民教育・英貨排斥の4方針を採択。反英民族運動が本格化した。
1919ガンディーの指導開始ガンディーが国民会議の主要指導者となり、非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)の方針を本格化させた。
1930塩の行進ガンディーが塩の専売に抗議して約380kmを歩いた「塩の行進」を敢行。世界中に独立運動を印象づけた。
1947インド独立8月15日、インドがイギリスから独立。国民会議のネルーが初代首相に就任した。インド国民会議の62年越しの目標が達成された。
1950インド共和国成立インドが共和国として独立を完成させ、憲法が施行された。国民会議派はその後も長くインドの政権を担う与党となった。
◎インド人知識人の政治的声を組織化する場が生まれ、やがてガンディー・ネルーを中心とした非暴力・不服従運動へと発展。1947年のインド独立を実現するうえでの中心的な組織となった。
△発足当初は穏健なエリート組織であり、農民や労働者など一般庶民の利益を直接代表するものではなかった。また、ヒンドゥー教徒中心の組織に対しムスリムが距離を置き、後に全インド・ムスリム連盟が結成されたことが、独立時のインド・パキスタン分離独立の一因ともなった点に注意が必要。
ウォメシュ・チャンドラ・ボネルジー
インド国民会議初代会長1885年の第1回大会で議長を務めたベンガル出身の弁護士。インド人知識人層を代表する穏健派の指導者で、国民会議の基盤づくりに貢献した。
アラン・オクタヴィアン・ヒューム
インド国民会議の設立を支援したイギリス人官僚退職したイギリスの文官で、インド人の不満を合法的な政治活動へと向けることを目的として国民会議の創設を後押しした。
マハトマ・ガンディー
国民会議の最高指導者(20世紀)南アフリカでの活動を経て帰国後、非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の方針で国民会議を率いた。塩の行進など大衆運動を組織し、インド独立の精神的指導者となった。
ジャワハルラール・ネルー
国民会議議長・インド初代首相ガンディーの後継者として国民会議を率い、1947年の独立後にインド初代首相に就任した。近代インド国家の建設を主導した。
- インド国民会議(国民会議派)
- 1885年にボンベイで発足したインドの政治組織。当初は穏健な請願団体だったが、独立運動の中心組織へと発展。独立後は政党「国民会議派」として存続した。
- スワデーシ
- サンスクリット語で「自国産品」の意味。イギリス製品をボイコットしてインド産品を愛用する運動。1906年のカルカッタ大会で方針として採択された。
- スワラージ
- サンスクリット語で「自治」または「自己統治」の意味。インドの自治・独立を求めるスローガンとして国民会議が掲げた。
- 非暴力・不服従(サティヤーグラハ)
- ガンディーが提唱した抵抗運動の方針。暴力を用いず、不当な命令や法律に従うことを拒否することで植民地支配に抵抗する。塩の行進などがその代表例。
- ベンガル分割令
- 1905年、インド総督カーゾンがベンガル州を宗教別(ヒンドゥー教徒多数地域・ムスリム多数地域)に二分割した命令。民族運動の分断を図ったものとされ、インド人の激しい反発を招いた。1911年に撤回。
1発足の場所はボンベイの学校だった
1885年12月のインド国民会議第1回大会は、ボンベイ(現ムンバイ)のゴクルダス・テージュパル・サンスクリット・カレッジで開催された。わずか約70名の代表が集まった小さな会合が、後に数億人の独立運動を動かす組織の出発点となった。
2イギリス人官僚が創設を後押しした皮肉
インド国民会議の創設を最も強力に推進したのは、実はイギリス人元官僚のA・O・ヒュームだった。彼はインド人の不満を合法的な請願活動へと向かわせることで反乱を防ごうとした。しかしその組織が後にイギリスを相手取る独立運動の中心になるとは、当時のイギリス当局は想定していなかっただろう。
3ガンディーはもともと弁護士だった
インド独立運動の象徴であるマハトマ・ガンディーは、ロンドンで法律を学んだ弁護士だった。南アフリカでインド人への差別と戦う中で非暴力抵抗運動を発展させ、帰国後にインド国民会議の指導者となった。インドの「父」と呼ばれる彼の出発点は、国民会議と同じくイギリス式教育を受けたエリート層だった。
4インド独立はイギリス帝国解体の始まりとなった
1947年のインド独立は、その後のアジア・アフリカの植民地独立運動に大きな影響を与えた。世界最大の植民地・インドを失ったことでイギリス帝国は急速に解体へと向かい、1960年代にかけてアフリカ諸国が次々と独立を果たした。インド国民会議の運動は世界史的な「脱植民地化」の先駆けとなった。
5国民会議派は21世紀も現役政党
1885年に発足したインド国民会議は、独立後も「インディアン・ナショナル・コングレス(INC)」として存続し、インドの政治に関与し続けている。初代首相ネルーの一族(インディラ・ガンディー、ラジーブ・ガンディーなど)が長く党を率いた歴史でも知られる。140年以上の歴史を持つ世界最古級の政党の一つである。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1885年。語呂は「嫌、母後(いやはご)(1885)国民会議」。
発足場所はボンベイ(現ムンバイ)。インドの知識人(エリート層)が中心となって結成した。
当初は穏健な請願組織だったが、1905年のベンガル分割令への反発を機にスワデーシ・スワラージを掲げる反英民族運動へと転換した。
20世紀にガンディー(非暴力・不服従運動)とネルー(初代首相)が指導者となり、1947年のインド独立を実現した。
独立後は政党「国民会議派」として存続。設立から独立・独立後のインド政治まで一貫して関連する組織であることが問われる。
語呂クイズ
「嫌、母後(いやはご)(1885)国民会議」= インド国民会議が発足するは西暦何年?
- Q. インド国民会議はいつ、どこで発足しましたか?
- A. 1885年12月、インドのボンベイ(現在のムンバイ)で第1回大会が開かれ、発足しました。
- Q. インド国民会議が発足したのはなぜですか?
- A. イギリスの植民地支配のもとで政治参加の機会を奪われていたインド人知識人たちが、自分たちの要望をイギリス当局に伝える場を設けるために結成しました。イギリス人元官僚ヒュームも設立を後押ししました。
- Q. インド国民会議はどのように変化しましたか?
- A. 発足当初は穏健な請願団体でしたが、1905年のベンガル分割令への反発を機に反英民族運動へと転換。20世紀にはガンディーの非暴力・不服従運動を展開し、1947年のインド独立を実現する中心組織となりました。
- Q. スワデーシ・スワラージとはどういう意味ですか?
- A. スワデーシはサンスクリット語で「国産品愛用」、スワラージは「自治・独立」を意味します。1906年のカルカッタ大会でインド国民会議が採択した方針で、イギリス製品をボイコットしてインドの自治を求める運動の柱となりました。
- Q. ガンディーとインド国民会議の関係は何ですか?
- A. ガンディーは南アフリカから帰国後、インド国民会議の指導者となり、非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)で組織を率いました。1930年の塩の行進など大衆運動を組織し、インド独立の精神的支柱として活躍しました。
インド国民会議の発足は、植民地支配に苦しむインドの知識人たちが「声を上げる場所」を作るという、一見小さな試みから始まりました。当初はイギリスに逆らうことすら想定されていなかったこの組織が、半世紀をかけてガンディーの非暴力運動の舞台となり、1947年のインド独立という歴史的な成果を生み出しました。「嫌、母後(いやはご)(1885)国民会議」の語呂とともに、1885年の発足・ベンガル分割令(1905年)への反発・スワデーシ・スワラージの採択・ガンディーによる独立運動という流れを押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
インド国民会議の発足年月は1885年12月が通説で一致している。
A・O・ヒュームの役割(ガス抜き目的との説)は広く知られた通説だが、近年はインド側の自発性を重視する研究もある。本文では「支援した」「ガス抜きの狙いもあったとされる」と両面を含む表現にした。
ガンディーのフルネームはモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。「マハトマ」は「偉大な魂」を意味する称号。
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