高校/戦争
1775
アメリカ独立戦争が始まる
ジョージ・ワシントン(大陸軍総司令官)
語呂
覚え方
嘶御(1775)独立戦争開戦
いななご(1775)独立戦争開戦
1775年4月、イギリスの北アメリカ植民地でついに武力衝突が起きました。ボストン近郊のレキシントンとコンコードで、イギリス正規軍と植民地の民兵が銃撃戦を繰り広げ、アメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)の火蓋が切られたのです。発端はイギリス本国による相次ぐ課税強化でした。印紙法(1765年)や茶法(1773年)に対して植民地側は「イギリス議会に代表を送れていないのに課税されるのは不当だ」と猛反発。ボストン茶会事件(1773年)などの抵抗運動を経て、衝突は不可避となっていました。植民地側は第2回大陸会議でジョージ・ワシントンを大陸軍総司令官に任命して組織的な戦争準備を整え、翌1776年7月4日には独立宣言を発布。フランスらの支援を得て戦い続けた植民地側は、1781年のヨークタウンの戦いで決定的勝利を収め、1783年のパリ条約でイギリスに独立を承認させました。
この記事のポイント
- 1775年4月、レキシントン・コンコードの戦いでイギリス軍と植民地民兵が武力衝突し、独立戦争が始まった
- 背景には印紙法・茶法など本国による相次ぐ課税強化と「代表なくして課税なし」の反発があった
- 第2回大陸会議でジョージ・ワシントンが大陸軍総司令官に任命され、組織的な戦争体制が整った
- 1776年7月4日に独立宣言(ジェファソン起草)が発布され、13植民地がイギリスからの独立を宣言
- 1783年のパリ条約でイギリスがアメリカ合衆国の独立を正式に承認した
ここが面白い「代表なくして課税なし」――海の向こうのイギリス議会に一切の発言権を持たないまま税金だけを取られ続けた植民地人が、1775年春、ついに銃を取った。
アメリカ独立戦争は突然始まったわけではありません。七年戦争後の課税問題に端を発する10年余りの対立が積み重なり、ついに1775年に武力衝突へと発展しました。その経緯を順に見ていきましょう。
七年戦争と課税強化の始まり
1763年に終結した七年戦争(フレンチ・インディアン戦争とも呼ばれる北米での戦線を含む)でイギリスはフランスに勝利しましたが、莫大な戦費と植民地防衛費の負担が残りました。イギリス議会はその費用を植民地にも負担させようと、1765年に印紙法を制定。法的文書・新聞・証明書などへの課税を定めましたが、植民地側は猛反発し、同法は翌年廃止に追い込まれました。
「代表なくして課税なし」の主張と連続する摩擦
植民地側の反発の核心は「イギリス議会に植民地の代表が存在しない以上、その議会が植民地に課税する権限はない」という論理でした。印紙法廃止後もイギリスはタウンゼンド諸法(1767年)で茶・ガラス・紙などへの課税を再び試みます。植民地側の抵抗は続き、1770年にはボストン虐殺事件と呼ばれる発砲事件も起きました。
ボストン茶会事件と懲罰的諸法
1773年、イギリスは東インド会社に北米への茶の独占販売権を与える茶法を制定しました。植民地の商人を排除しかねないこの法律に怒った急進派が、1773年12月にボストン港でイギリス船の茶箱を海に投げ捨てる「ボストン茶会事件」を引き起こします。これに対してイギリス議会は1774年にボストン港封鎖などを定めた懲罰的諸法(強制諸法)を制定。植民地側はこれを「耐えられない諸法」と呼んで強く反発し、1774年秋に第1回大陸会議が開催されました。
レキシントン・コンコードの戦いと開戦
1775年4月18日夜、イギリス軍はボストンから民兵の武器庫があるコンコードへ向けて進軍しました。愛国派の活動家ポール・リビアたちが騎馬で急報を飛ばし、翌19日朝にレキシントンで民兵とイギリス軍が対峙。「世界に響いた一発」と後に呼ばれる最初の銃声が響き、独立戦争が始まりました。コンコードでも戦闘が続き、イギリス軍はボストンへの撤退を余儀なくされました。
「代表なくして課税なし」という原則の確立
≒ 税金は選んだ代表者が決める民主主義の基本自分たちが選出した代表者のいない議会で課税を決められることを拒否した植民地人の主張は、後の民主主義・立憲主義の基本原則となった。
市民による自発的な軍事組織の形成
≒ 市民が国家を守るという共和主義的軍隊の原型大陸軍は植民地民兵を基盤とした市民の軍隊であり、ヨーロッパ型の職業軍人軍とは性質が異なった。ワシントンはこの烏合の衆をまとめ上げ、長期戦に持ち込んだ。
近代的な独立宣言の誕生
≒ すべての人間は平等であるという普遍的人権思想の宣言1776年の独立宣言は「すべての人間は平等に創られ、生命・自由・幸福追求の権利を持つ」と宣言し、フランス革命をはじめとする後世の革命・人権運動に多大な影響を与えた。
1763七年戦争終結パリ条約でイギリスがフランスに勝利。膨大な戦費処理のため植民地への課税強化路線が始まる。
1765印紙法制定植民地での法的文書・新聞などへの課税を定めた印紙法が制定される。植民地の猛反発を受け翌年廃止。
1767タウンゼンド諸法茶・ガラス・紙などへの新たな関税を課すタウンゼンド諸法が制定される。植民地の抵抗運動が継続。
1770ボストン虐殺事件ボストンでイギリス兵が市民に発砲し5人が死亡。植民地の反英感情がさらに高まる。
1773ボストン茶会事件12月、急進派の愛国者たちがボストン港でイギリス船の茶箱を海に投棄。独立運動の象徴的事件となる。
1774懲罰的諸法・第1回大陸会議ボストン港封鎖などを定めた懲罰的諸法(強制諸法)に対抗し、第1回大陸会議(フィラデルフィア)が開催される。
1775レキシントン・コンコードの戦い(開戦)4月19日、レキシントンとコンコードで武力衝突。独立戦争が始まる。5月に第2回大陸会議が開催され、ワシントンが総司令官に任命される。
1776独立宣言7月4日、第2回大陸会議がジェファソン起草の独立宣言を採択。13植民地がイギリスからの独立を宣言。
1777サラトガの戦い10月、サラトガの戦いで植民地軍がイギリス軍に大勝。これを機にフランスが植民地側の支援に踏み切る。
1778フランスの参戦フランスが植民地側(アメリカ側)と同盟を結んで参戦。続いてスペイン・オランダもイギリスと対立。
1781ヨークタウンの戦い10月、フランスの海軍支援を受けたワシントン率いる連合軍がヨークタウンでイギリス軍を降伏させる。事実上の戦争終結。
1783パリ条約9月、パリ条約が締結され、イギリスがアメリカ合衆国の独立を正式に承認。
◎植民地側が独立戦争に勝利し、1783年のパリ条約でイギリスに独立を承認させた。世界初の近代的共和国・アメリカ合衆国が誕生し、独立宣言の「すべての人間は平等に創られた」という人権思想はフランス革命(1789年)をはじめとする後世の革命運動に多大な影響を与えた。
△独立宣言の「すべての人間は平等」という文言にもかかわらず、当時のアメリカ南部では黒人奴隷制が維持され続けた。また独立宣言やその後の合衆国憲法が保障した権利は当初、白人男性財産所有者が主な対象であり、女性・奴隷・先住民は含まれなかった点に注意が必要。
ジョージ・ワシントン
大陸軍総司令官・初代アメリカ合衆国大統領1775年6月、第2回大陸会議で大陸軍総司令官に任命。バレー・フォージの厳冬など幾多の苦難を乗り越え、長期戦を戦い抜いて独立を勝ち取り、後に初代大統領となった。
トマス・ジェファソン
独立宣言起草者・後の第3代大統領1776年の独立宣言の主要起草者。「すべての人間は平等に創られた」という人権思想を高らかに宣言した。後にアメリカ合衆国第3代大統領を務めた。
サミュエル・アダムズ
急進派の指導者・「ボストン茶会事件」の計画者ボストンの急進的な愛国者で、ボストン茶会事件の計画・実行に深く関与。植民地各地の抵抗運動をつないだ「通信委員会」の設立にも尽力した。
ポール・リビア
愛国派の活動家・急報の騎馬伝令1775年4月18日深夜、イギリス軍のコンコード進軍を愛国派民兵に伝えるために馬で駆け抜けた。後にヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩で英雄として讃えられた。
ベンジャミン・フランクリン
外交使節・科学者・建国の父の一人フランスへの外交使節として活躍し、1778年のフランスの対米支援取り付けに大きく貢献した。独立宣言の署名者でもある。
ジョージ3世
イギリス国王(在位1760〜1820年)植民地への強硬路線を支持したイギリス国王。独立戦争中も植民地との和解交渉には消極的で、戦争の長期化に寄与したとされる。
- 大陸会議
- 13植民地の代表が集まった会議。1774年の第1回大陸会議では対英抵抗策を決議し、1775年の第2回大陸会議では独立戦争の遂行とワシントンの総司令官任命を決定。後に合衆国議会の前身となった。
- 大陸軍
- 第2回大陸会議が創設したアメリカ植民地側の正規軍。ワシントンが総司令官を務めた。各植民地の民兵を基盤に編成され、装備・訓練ともに当初は劣勢だったが、長期戦で独立を勝ち取った。
- 印紙法
- 1765年にイギリス議会が制定した、植民地での法的文書・新聞・証明書などへの課税法。植民地の猛反発を受け1766年に廃止されたが、課税問題の象徴となった。
- ボストン茶会事件
- 1773年12月、ボストンで急進派の愛国者たちがイギリス船に積まれた茶箱を港に投棄した事件。茶法への抗議行動で、イギリスの懲罰的措置を招いて独立戦争への道を加速させた。
- 独立宣言
- 1776年7月4日に大陸会議が採択した文書。ジェファソンが主に起草し、「すべての人間は平等に創られ、生命・自由・幸福追求の権利を持つ」という原則を宣言した。7月4日はアメリカ独立記念日とされている。
- サラトガの戦い
- 1777年10月、ニューヨーク州サラトガでアメリカ軍がイギリス軍を大破した戦い。この勝利がフランスのアメリカ側への正式参戦を決断させる転換点となった。
1「世界に響いた一発」の発砲者は今も不明
レキシントンでの最初の銃声は誰が放ったのかが今なお歴史的に確定していない。イギリス側も植民地側も相手が先に撃ったと主張しており、「その一発」の発砲者は両陣営の証言が食い違ったまま歴史の謎として残っている。詩人エマーソンが後に「世界に響いた一発」と表現した。
2独立記念日は7月4日だが、実際の投票は7月2日
独立の賛否を問う投票が大陸会議で行われたのは1776年7月2日。宣言文書の採択が7月4日であることから7月4日が独立記念日とされているが、建国の父の一人ジョン・アダムズは「7月2日こそ記念すべき日になるだろう」と妻への手紙に書いていた。
3ワシントンは当初、独立ではなく権利回復を求めていた
総司令官就任当初、ワシントンを含む多くの植民地指導者はイギリスからの完全独立より、イギリス人としての権利回復(課税問題の解決)を目指していたとされる。「独立」という方向性が固まったのは、1775年末から1776年にかけてのことだった。
4フランスは表向き中立を保ちながら秘密支援を続けた
フランスはサラトガの戦い(1777年)でアメリカ側の勝算を確認するまで公式の参戦を見送っていた。しかしそれ以前から秘密裏に武器・資金・志願将校(ラファイエットら)を送り込んでいた。アメリカ独立戦争はヨーロッパの列強間の対英連合という側面も持っていた。
5独立宣言の署名は一日で済まなかった
独立宣言が採択された1776年7月4日に全員が署名したわけではなく、大多数の代表が署名したのは8月2日とされている。最終的な署名者は56名にのぼる。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1775年(開戦)。語呂は「嘶御(1775)独立戦争開戦」。独立宣言(1776年)・パリ条約(1783年)と混同しないこと。
開戦の直接のきっかけは1775年4月のレキシントン・コンコードの戦い。
背景となった課税問題のキーワードは「代表なくして課税なし」。印紙法(1765年)・茶法(1773年)・ボストン茶会事件(1773年)の流れを押さえる。
大陸軍総司令官はジョージ・ワシントン(第2回大陸会議で任命)。
独立宣言(1776年7月4日)の起草者はトマス・ジェファソン。
フランスが参戦を決断したきっかけはサラトガの戦い(1777年)での植民地側の勝利。
戦争の終結はヨークタウンの戦い(1781年)での勝利→パリ条約(1783年)でイギリスが独立承認。
語呂クイズ
「嘶御(1775)独立戦争開戦」= アメリカ独立戦争が始まるは西暦何年?
- Q. アメリカ独立戦争はなぜ起きたのですか?
- A. 七年戦争後にイギリスが北アメリカ植民地への課税を強化したことが発端です。植民地側はイギリス議会に代表を送れていないにもかかわらず課税されることを「代表なくして課税なし」として拒否し、抵抗運動が激化。1775年の武力衝突へと発展しました。
- Q. 独立戦争の開戦はいつ・どこで起きたのですか?
- A. 1775年4月19日、マサチューセッツ州のレキシントンとコンコードで、イギリス正規軍と植民地の民兵が衝突したことが開戦とされています。
- Q. アメリカが独立宣言を出したのはいつですか?
- A. 1776年7月4日に大陸会議が独立宣言を採択しました。この日がアメリカ独立記念日(インディペンデンス・デー)とされています。起草者はトマス・ジェファソンです。
- Q. なぜフランスはアメリカ側を支援したのですか?
- A. 七年戦争でイギリスに敗れた経緯から、フランスはイギリスを弱体化させる好機とみなしていました。1777年のサラトガの戦いでアメリカ側が勝利すると勝算を確信し、1778年に正式参戦しました。
- Q. 独立戦争の結果はどうなりましたか?
- A. 1781年のヨークタウンの戦いで植民地(アメリカ)側が決定的勝利を収め、1783年のパリ条約でイギリスがアメリカ合衆国の独立を正式に承認しました。
- Q. 独立宣言の「すべての人間は平等」はすべての人に当てはまりましたか?
- A. 当時の現実では必ずしもそうではありませんでした。独立後もアメリカ南部では黒人奴隷制が存続し、女性・奴隷・先住民は権利の対象外とされていました。この矛盾は後の廃奴運動や南北戦争(1861〜1865年)につながっていきます。
アメリカ独立戦争は、「代表なくして課税なし」という原則をめぐるイギリスと植民地の10年余りの対立がついに武力衝突へと発展した歴史的事件です。1775年4月のレキシントン・コンコードの銃声は、単なる植民地の反乱にとどまらず、「人民が自ら選んだ代表者に基づいて統治される」という近代民主主義の原則を世界に示す烽火となりました。ワシントンが率いた大陸軍はフランスらの支援を得て長期戦を戦い抜き、1783年のパリ条約でイギリスに独立を認めさせました。独立宣言が掲げた人権思想はフランス革命(1789年)にも影響を与え、近代世界の扉を大きく押し開けました。「嘶御(1775)独立戦争開戦」の語呂とともに、開戦(1775年)・独立宣言(1776年)・パリ条約(1783年)という三つの年号のセットで押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
レキシントンでの最初の発砲者については両陣営の証言が食い違い、歴史的に確定していないため「武力衝突」という表現を採用した。
「ボストン茶会事件」を計画・実行した集団については「モホーク族に変装した愛国者たち」とする史料もあるが、詳細は諸説あるため本文では「急進派の愛国者」と記述した。
ポール・リビアの「深夜の疾走」については、後世のロングフェローの詩(1861年)によって誇張・美化された部分があるとする指摘もある。伝令は実際には複数名が行ったとされるが、通説として広く知られる表現を採用した。
独立宣言の採択日と署名日の相違(採択7月4日・大多数署名8月2日)については、試験的には「1776年7月4日採択」で問題ない。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1776-us-independence・1783-treaty-of-paris を記載。存在しない場合は削除すること。