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高校/政治
1772

第1回ポーランド分割が行われる

エカチェリーナ2世(ロシア女帝)・フリードリヒ2世(プロイセン王)・マリア=テレジア(オーストリア女帝)
語呂
覚え方
嘶に(1772)ポーランド分割
いななに(1772)ポーランド分割

1772年、ロシア・プロイセン・オーストリアの3大国は、互いの利害を調整しながらポーランド=リトアニア共和国の領土を分割する条約に調印しました。ポーランド国内の政治的混乱と貴族たちの自由拒否権(リベルム=ヴェト)による機能不全が、列強に介入の口実を与えたのです。これが「第1回ポーランド分割」であり、その後1793年の第2回(ロシア・プロイセン)、1795年の第3回(3国)を経て、ポーランドは地図から完全に消滅しました。コシューシコらの抵抗運動も鎮圧され、ポーランドが国家として復活するのは第一次世界大戦後の1918年のことです。弱体化した国家が周辺大国に分割・消滅させられた歴史の典型例として、世界史の試験でも頻出の出来事です。

この記事のポイント

  • 1772年、ロシア(エカチェリーナ2世)・プロイセン(フリードリヒ2世)・オーストリア(マリア=テレジア)の3国がポーランド領を分割
  • ポーランドは選挙王政と自由拒否権(リベルム=ヴェト)で政治が機能不全に陥っており、国力が著しく衰えていた
  • 1793年に第2回分割(ロシア・プロイセン)、1795年に第3回分割(3国)でポーランドは国家として消滅
  • コシューシコが1794年に民族蜂起を率いたが、ロシア・プロイセン連合軍に鎮圧された
  • ポーランドが独立を回復するのは第一次世界大戦後の1918年(翌1919年のヴェルサイユ条約で国境などが確定)
ここが面白い

「国が弱ければ、隣の大国に食われる」――1772年、ポーランドは一度も戦争に負けることなく、周辺3大国の話し合いだけで領土を奪われた。

ここに至るまでの流れ
背景

第1回ポーランド分割は突然起きた出来事ではありません。17世紀からのポーランドの内政混乱と国力衰退、そして18世紀ヨーロッパの勢力均衡政治という積み重ねの末に起きた出来事です。その背景を順に見ていきましょう。

選挙王政と自由拒否権のジレンマ

ポーランド=リトアニア共和国(1569年のルブリン合同で成立)は、王位が世襲ではなく貴族による選挙で決まる「選挙王政」をとっていました。これにより国王の権力は弱く、貴族(シュラフタ)たちが強大な政治力を持っていました。さらに議会(セイム)では「自由拒否権(リベルム=ヴェト)」と呼ばれる慣習があり、どの議員でも一人が反対すれば議会の決定を無効にできました。この仕組みが外国の干渉者に買収・悪用され、議会が機能不全に陥っていきました。

ロシアの介入と「保護者」の名目

18世紀のロシアはピョートル1世・エカチェリーナ2世のもとで急速に西洋化・近代化を進め、バルト海から黒海にかけての広大な勢力圏を確立しつつありました。ポーランドに対しては「ポーランド内の正教徒保護」を名目に干渉を繰り返し、事実上のポーランド保護国化を進めていました。エカチェリーナ2世は元恋人のポニャトフスキをポーランド王(スタニスワフ・アウグスト)に即位させ、親ロシア政権を作り上げました。

プロイセンの思惑と「回廊」問題

プロイセンのフリードリヒ2世は、自国の東部(東プロイセン)と西部(ブランデンブルク)の間にポーランド領(王領プロイセン=のちの西プロイセン、ポメラニア地方)が挟まる地理的問題を長年抱えていました。この回廊地帯を手に入れることが悲願であり、ポーランド分割はその絶好の機会でした。一方で直接の領土拡大を求めつつも、バランス上オーストリアにも同等の利益を与える必要があり、分割案を積極的に推進しました。

第1回分割の実施

1772年8月、3国はサンクトペテルブルク条約に調印し、ポーランド=リトアニア共和国の領土の約3分の1(当時の国土の約29%)と人口の約35%を分け合いました。ロシアは東部の広大な地域を、プロイセンは西プロイセン(回廊地帯を含む)を、オーストリアはガリツィア地方を獲得しました。マリア=テレジアは内心反対しながらも、孤立を避けるために分割に加わったとされています。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

大国による弱小国の分割という前例

≒ 強い国が話し合いだけで弱い国の領土を奪うこと

ポーランドは敗戦したわけではなく、周辺3大国が話し合いで領土を分割した。「力の均衡(バランス・オブ・パワー)」を名目に、弱体国が一方的に犠牲にされた歴史の典型例。

リベルム=ヴェト(自由拒否権)の弊害

≒ 一人の反対で国会の決議がすべてひっくり返る制度

ポーランド議会の「全員一致」慣習は民主的に見えて実は機能不全を招いた。外国勢力に一議員を買収されるだけで国政を止められる「制度の欠陥」が国家滅亡の一因となった。

3回の分割でポーランドが地図から消滅

≒ 国家が段階的に解体・消滅していくプロセス

1772年(第1回)→1793年(第2回・ロシア+プロイセン)→1795年(第3回・3国)の3段階を経てポーランドは消滅。123年間にわたり国家不在の状態が続いた。

前後のできごと
年表
1569
ポーランド=リトアニア共和国成立ルブリン合同によりポーランド王国とリトアニア大公国が合同し、「ポーランド=リトアニア共和国」が成立。選挙王政・貴族共和制の体制をとる。
1764
スタニスワフ・アウグスト即位エカチェリーナ2世の支援を受けたポニャトフスキが、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキとしてポーランド王に即位。親ロシア政権が成立。
1768
バル連盟の乱ロシアの干渉に反発する貴族たちが「バル連盟」を結成し武装蜂起。しかしロシア軍に鎮圧され、混乱が分割の口実を与えた。
1772
第1回ポーランド分割8月、ロシア・プロイセン・オーストリアの3国がサンクトペテルブルク条約に調印。ポーランドの国土の約29%・人口の約35%が3国に分割される。
1791
5月3日憲法改革派が「5月3日憲法」を制定。選挙王政を廃し、世襲王政と三権分立を定めた近代的な憲法。世界史上2番目に古い成文憲法とされるが、まもなくロシアの干渉で廃止された。
1793
第2回ポーランド分割ロシアとプロイセンが再びポーランドの領土を分割。5月3日憲法体制は崩壊し、ポーランドの国土はさらに縮小した。
1794
コシューシコの蜂起タデウシュ・コシューシコが民族解放を目指して武装蜂起。一時的な成功を収めるが、ロシア・プロイセン連合軍に鎮圧され、コシューシコは捕虜となった。
1795
第3回ポーランド分割・国家消滅ロシア・プロイセン・オーストリアの3国が残りのポーランド領を分割。スタニスワフ・アウグスト王は退位し、ポーランドは国家として地図から消滅した。
1807
ワルシャワ公国の成立ナポレオンがティルジット条約でワルシャワ公国を創設。ポーランド人に一時的な自治を与えたが、ナポレオン敗北後の1815年に解体された。
1918
ポーランド独立回復第一次世界大戦終結後、ポーランドが独立を回復(第二共和国の成立)。123年ぶりに国家が復活し、翌1919年のヴェルサイユ条約で国境などが確定した。
結果とその後
結果
ポーランド国内では分割への危機感から改革運動が生まれ、1791年に近代的な「5月3日憲法」が制定された(世界史上2番目に古い成文憲法とされる)。民族意識もかえって高まり、123年後の独立回復につながる民族運動の礎となった。
国家は1795年に完全消滅し、ポーランド民族は123年間にわたって分割統治下に置かれた。コシューシコの蜂起など抵抗運動は繰り返されたが、いずれも鎮圧された。また第1回分割がその後の列強による領土分割の先例となり、19世紀の「弱肉強食」的な国際秩序を正当化する論拠ともなった点に注意が必要。
登場人物
人物

エカチェリーナ2世

ロシア女帝(在位1762〜1796年)

「大帝」と呼ばれる啓蒙専制君主。元恋人のポニャトフスキをポーランド王に据えてロシアの影響力を強め、第1回・第2回・第3回の全分割を主導した。フランスの思想家ヴォルテールとも親交があり「啓蒙専制」の象徴とされる。

フリードリヒ2世

プロイセン王(在位1740〜1786年)

「大王」と呼ばれる軍事・文化両面の傑出した君主。東プロイセンとブランデンブルクをつなぐ回廊地帯の獲得を狙い、3国分割を積極的に推進した。第1回分割の「仕掛け人」とも評される。

マリア=テレジア

オーストリア女帝(在位1740〜1780年)

ハプスブルク家の女帝。ポーランド分割には内心反対していたとされるが(「泣きながら分け取った」という有名な評言がある)、ロシア・プロイセンとの孤立を避けるため参加した。ガリツィア地方を獲得。

スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ

ポーランド最後の国王(在位1764〜1795年)

エカチェリーナ2世の支援で王位についた親ロシア派の国王。改革にも意欲を見せ、1791年の5月3日憲法制定を支持したが、ロシアの圧力の前に1795年に退位。のちにサンクトペテルブルクで死去した(1798年)。

タデウシュ・コシューシコ

ポーランドの民族的英雄・将軍

アメリカ独立戦争にも参加した軍人。1794年にポーランドの民族解放を目指して蜂起(コシューシコの乱)を起こし、農民にも武器を持たせて抵抗した。ロシア・プロイセン連合軍に敗れて捕虜となり、後に釈放された。

キーワード解説
用語
ポーランド=リトアニア共和国
1569年のルブリン合同で成立した複合国家。選挙王政と貴族共和制をとり、最盛期には東ヨーロッパ最大の国家だったが、17世紀後半から衰退し1795年に消滅した。
選挙王政
王位を世襲ではなく選挙で決める制度。ポーランドでは貴族(シュラフタ)が選挙人となった。外国からの介入を招きやすく、王権を弱体化させる要因となった。
リベルム=ヴェト(自由拒否権)
ポーランド議会(セイム)の慣習で、どの議員でも一人が拒否すれば議会決定を無効にできた。民主的に見えるが実際には外国勢力による買収・妨害に悪用され、国政を機能不全に陥れた。
シュラフタ
ポーランドの貴族階層。数は多く、人口の数%を占めたが、政治的権利(選挙権・被選挙権・リベルム=ヴェト)を持ち、ポーランドの政治を実質的に支配した。
5月3日憲法(1791年)
ポーランドが第1回分割後の危機感から制定した近代的な憲法。選挙王政を廃止し世襲王政と三権分立を定めた。アメリカ合衆国憲法(1787年)に次ぐ世界史上2番目の成文憲法とされるが、ロシアの干渉によりまもなく廃止された。
バランス・オブ・パワー(勢力均衡)
ヨーロッパの大国が特定の国が突出して強大になることを防ぐため、相互に抑制し合う外交原則。ポーランド分割もこの論理で正当化されたが、弱小国が犠牲になる構造的問題を持っていた。
もっと知りたい
豆知識

1マリア=テレジアは「泣きながら分け取った」

オーストリアのマリア=テレジアはポーランド分割に道義的な反対を唱えていたとされ、フリードリヒ2世が「彼女は泣きながら、それでもいつも分け取った(Sie weint, aber sie nimmt immer)」と皮肉ったという逸話が残っている。実際には自国の利益のためにガリツィア地方を獲得しており、反対が形式的なものだったとも言われる。

2コシューシコはアメリカ独立戦争の英雄でもあった

タデウシュ・コシューシコはポーランドの英雄であるとともに、アメリカ独立戦争(1775〜1783年)にも志願して参加し、大陸軍の工兵将校として活躍した。ウェストポイントの要塞設計にも携わり、アメリカでも国民的英雄として称えられている。

3世界で2番目に古い成文憲法はポーランド産

1791年の「5月3日憲法」は、1787年のアメリカ合衆国憲法に次いで世界史上2番目に古い成文憲法とされている。近代的な権力分立と世襲王政を定めたこの憲法は、ロシアの介入(1792年の戦争)を経て、まもなく廃止されてしまった。

4ポーランドは123年間「国家なし」だった

1795年の第3回分割でポーランドが消滅してから1918年の独立回復まで、実に123年間にわたってポーランドという国家は地図上に存在しなかった。それでもポーランドの言語・文化・民族的アイデンティティは分割統治下でも保たれ、最終的な独立につながった。

5ナポレオンが一時的に「ワルシャワ公国」を作った

ナポレオンは1807年のティルジット条約で「ワルシャワ公国」を創設し、ポーランド人に自治を与えた。ポーランド人はナポレオンに強く期待して多くの兵を提供した。しかしナポレオン敗北後の1815年のウィーン会議でワルシャワ公国は解体され、ポーランドの独立はふたたび遠のいた。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1772年。語呂は「嘶に(1772)ポーランド分割」。
分割した3国と首謀者:ロシア(エカチェリーナ2世)・プロイセン(フリードリヒ2世)・オーストリア(マリア=テレジア)。
分割の背景:選挙王政・リベルム=ヴェト(自由拒否権)による政治的機能不全が大国の介入を招いた。
3段階の分割:1772年(第1回・3国)→1793年(第2回・ロシア+プロイセン)→1795年(第3回・3国)→ポーランド国家消滅。
コシューシコの蜂起(1794年)は鎮圧された。ポーランドが独立を回復するのは1918年(第一次世界大戦後)。
1791年の「5月3日憲法」はアメリカ合衆国憲法に次ぐ世界史上2番目の成文憲法とされるが、ロシアの圧力で廃止された点も押さえておく。
語呂クイズ
「嘶に(1772)ポーランド分割」= 第1回ポーランド分割が行われるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. なぜポーランドは分割されたのですか?
A. ポーランドは選挙王政と自由拒否権(リベルム=ヴェト)によって国王の権限が極めて弱く、議会も機能不全に陥っていました。この政治的混乱に乗じてロシア・プロイセン・オーストリアの3大国が介入し、互いの利害を調整するかたちで領土を分け取りにしました。
Q. リベルム=ヴェトとは何ですか?
A. ポーランド議会(セイム)の慣習で、どの議員であっても一人が拒否すれば議会の決定全体を無効にできる仕組みです。外国勢力が一議員を買収するだけでポーランドの国政を止められるため、ロシアなどに悪用されました。
Q. ポーランド分割は何回あったのですか?
A. 合計3回です。1772年の第1回(ロシア・プロイセン・オーストリア)、1793年の第2回(ロシア・プロイセン)、1795年の第3回(3国)で、最終的にポーランドは国家として消滅しました。
Q. コシューシコとは誰ですか?
A. タデウシュ・コシューシコは、アメリカ独立戦争にも参加したポーランドの軍人・民族的英雄です。1794年にポーランド解放を目指して武装蜂起しましたが、ロシア・プロイセン連合軍に敗れ、第3回分割後のポーランド消滅を防ぐことはできませんでした。
Q. ポーランドはいつ独立を回復しましたか?
A. 第一次世界大戦後の1918年です。戦争によってロシア・ドイツ(プロイセン)・オーストリアの3国がいずれも敗れ・崩壊したことで、ポーランドは123年ぶりに国家として復活しました。
Q. マリア=テレジアはなぜ反対しながらも分割に加わったのですか?
A. マリア=テレジアは分割に道義的な反対を唱えたとされますが、ロシアとプロイセンが分割を進める中でオーストリアだけが参加しなければ国際的に孤立し、両国の勢力がさらに拡大するという現実的判断から参加しました。「泣きながら分け取った」という逸話が残っています。
まとめ

第1回ポーランド分割(1772年)は、選挙王政・自由拒否権という制度的欠陥によって政治が機能不全に陥った国家が、周辺大国に食い物にされた歴史の典型例です。ポーランドは戦争で敗れたわけではなく、3大国の話し合いだけで領土を奪われました。その後1793年・1795年の2度の分割を経て国家として消滅し、コシューシコらの抵抗運動も実らず、独立回復は123年後の1918年まで待たなければなりませんでした。「嘶に(1772)ポーランド分割」の語呂とともに、3国の君主名・3回の分割の流れ・コシューシコの蜂起・1918年の独立という一連の流れを押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
第1回分割の「ポーランド国土の約29%・人口の約35%」という数字は資料によって若干異なるため、本文では「約3分の1」という表現を使い断定を避けた。
マリア=テレジアの「泣きながら分け取った」という言葉は、フリードリヒ2世の手紙に由来するとされるが、フリードリヒ2世自身がライバルを皮肉った文脈での発言であり、そのままマリア=テレジアの心情を表したものとは言いきれない。trvia項に「とされる」で記載した。
「5月3日憲法が世界史上2番目に古い成文憲法」という評価は一般的に使われるが、何を「成文憲法」とするかによって異論もある。本文では「とされる」の表現を使用した。
related は世界史サイト内の指定ID(1613-romanov-dynasty・1789-french-revolution)を記載。存在しない場合は削除すること。