高校/戦争
1740
オーストリア継承戦争が始まる
マリア=テレジア(オーストリア大公)/フリードリヒ2世(プロイセン王)
語呂
覚え方
否、四を(1740)オーストリア継承戦争
いなしお(1740)オーストリア継承戦争
1740年、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世が男子の世継ぎなく死去し、娘マリア=テレジアが家督を継ぎました。しかしプロイセン王フリードリヒ2世(大王)はこの女子相続に異議を唱え、豊かな工業地帯シュレジエン(シレジア)に軍を進めます。フランス・バイエルン・スペインがプロイセン側に立ち、イギリスがオーストリアを支持したことで、戦争はヨーロッパ全土を舞台とする国際戦争へと拡大しました。1748年にアーヘンの和約で終結し、マリア=テレジアの相続権は認められたものの、シュレジエンはプロイセンが手中に収めました。この戦争は近代プロイセンの台頭を決定づけ、オーストリアとフランスが手を結ぶ「外交革命」をもたらし、やがて七年戦争(1756〜1763年)へと続く歴史の転換点となりました。
この記事のポイント 1740年、カール6世の死去により娘マリア=テレジアがハプスブルク家の家督を継承 プロイセン王フリードリヒ2世が女子相続に異議を唱えシュレジエンを占領、開戦 フランス・バイエルン・スペイン対オーストリア・イギリスの国際戦争に拡大 1748年アーヘンの和約で終結。マリア=テレジアの相続は承認、シュレジエンはプロイセンが確保 オーストリアの遺恨が「外交革命」を招き、七年戦争(1756年〜)へと連鎖した
ここが面白い 「女に家督は継げない」――その一言が、ヨーロッパ全土を巻き込む8年間の大戦争を引き起こした。豊かな工業地帯をめぐる列強の野望が、大陸の地図を塗り替えていく。
オーストリア継承戦争は突然始まったわけではありません。ハプスブルク家の男系断絶問題、プロイセンの台頭、そして列強の領土的野心という三つの流れが重なって起きた戦争です。その背景を順に見ていきましょう。
国事詔書とハプスブルク家の後継問題 神聖ローマ皇帝兼オーストリア大公カール6世には男子の後継ぎがなく、帝国全土をまとめて娘マリア=テレジアに継がせるため、1713年に「国事詔書」を発布しました。この詔書はオーストリア諸邦の不分割とハプスブルク家の女系相続を認めるものでしたが、プロイセン・フランス・バイエルン・ザクセンなど各国はカール6世の生前には表向き同意しつつも、死後には反故にしました。
プロイセンの台頭とフリードリヒ2世の野心 1740年にフリードリヒ2世(大王)がプロイセン王に即位すると、その数か月後にカール6世が死去しました。フリードリヒ2世は父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が整備した強大な陸軍を受け継いでおり、シュレジエン(現在のポーランド西部)に目をつけました。シュレジエンは亜麻・石炭・金属工業が発達した豊かな地域で、プロイセンにとって経済的・軍事的価値が極めて高い土地でした。国事詔書への異議をあえて口実として、フリードリヒ2世は1740年12月に突如シュレジエンへ侵攻します。
国際戦争への拡大 プロイセンのシュレジエン侵攻を機に、フランス・バイエルン・スペインがハプスブルク家の弱体化を狙って参戦しました。バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはみずからを神聖ローマ皇帝(カール7世)と名乗り、フランスと連携しました。一方、イギリスはオーストリアと同盟を結び財政支援を行いました。戦場はシュレジエンにとどまらず、ボヘミア・バイエルン・北イタリア・低地地方にまで広がり、同時期に起きたイギリスとスペインの「ジェンキンスの耳の戦争」とも連動しました。
アーヘンの和約(1748年)と戦争の結末 8年にわたる戦争は1748年のアーヘンの和約(エクス=ラ=シャペルの和約)で終結しました。主な内容は、マリア=テレジアのハプスブルク家家督相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝位の承認、そしてシュレジエンのプロイセンへの割譲です。ただしマリア=テレジア本人は神聖ローマ皇帝位を得られず、「オーストリア大公・ハンガリー女王・ボヘミア女王」という称号にとどまりました。シュレジエン割譲はオーストリアにとって痛恨の結果であり、マリア=テレジアは国内改革を進める一方でシュレジエン奪回を悲願としました。
シュレジエン割譲とプロイセンの躍進 ≒ 資源豊かな地域をめぐる国家間の領土争い シュレジエンはオーストリアにとって最も豊かな属州のひとつだった。プロイセンがこれを獲得したことで経済力・軍事力が大幅に強化され、ドイツ内での主導権争いが本格化した。
マリア=テレジアの相続承認と帝国の再編 ≒ 女性リーダーが男性中心の国際秩序に挑戦した先例 女性によるハプスブルク家の家督相続が国際的に承認されたことは画期的だったが、神聖ローマ皇帝位は夫に帰した。マリア=テレジアはその後、中央集権的な行政改革・軍制改革を断行してオーストリアを近代国家へと変革した。
外交革命の引き金 ≒ 長年の敵国同士が同盟を組み直す大転換 戦争後、マリア=テレジアは宰相カウニッツを通じてフランスと同盟を結ぶ「外交革命(1756年)」を実現した。これにより従来のハプスブルク対フランスの対立構造が逆転し、七年戦争の同盟関係が形成された。
1713 国事詔書発布 カール6世が国事詔書を発布。ハプスブルク領の不分割と女子相続を規定し、各国の承認を求めた。
1740 カール6世死去・開戦 10月にカール6世が死去し、マリア=テレジアが家督を継承。12月にフリードリヒ2世がシュレジエンへ侵攻して開戦。
1741 フランス・バイエルン参戦 フランスとバイエルンがオーストリアに宣戦。バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝(カール7世)を主張。
1742 第一次シュレジエン戦争終結 ブレスラウの和約で、オーストリアはシュレジエンの大部分をプロイセンに割譲。一時的な休戦。
1744 第二次シュレジエン戦争 フリードリヒ2世が再びボヘミアへ侵攻し、戦争が再燃(第二次シュレジエン戦争)。
1745 フランツ1世が神聖ローマ皇帝に即位 マリア=テレジアの夫フランツ1世が神聖ローマ皇帝に選出される。ドレスデン和約でプロイセンとの間の戦争が一旦決着。
1748 アーヘンの和約 オーストリア継承戦争全体の講和条約であるアーヘンの和約(エクス=ラ=シャペルの和約)が締結。シュレジエンはプロイセン領として確定。
1756 外交革命・七年戦争開始 オーストリアとフランスが同盟を結ぶ「外交革命」が起こり、同年七年戦争が始まる。
◎ マリア=テレジアのハプスブルク家家督相続が国際的に承認され、夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝位も確立した。マリア=テレジアはその後の行政・軍事改革でオーストリアの近代化を主導し、「国母」と呼ばれる偉大な君主となった。
△ シュレジエンはプロイセンに割譲され、オーストリアにとって最大の損失となった。この遺恨がオーストリア・フランスという従来の敵国同士の同盟(外交革命)を生み、七年戦争という更なる大戦争へとつながった。また戦争はシュレジエン問題を解決せず、ドイツ統一をめぐるプロイセンとオーストリアの対立の出発点にもなった。
マリア=テレジア オーストリア大公・ハンガリー女王・ボヘミア女王(在位1740〜1780年) 父カール6世の死後に23歳でハプスブルク家の家督を継承。列強の圧力と軍事的劣勢の中でもハンガリー貴族の支持を集めて戦い抜き、相続を守った。戦後は中央集権的な行政改革と軍制改革を断行し、16人の子をもつ「国母」として後世に名を刻んだ。
フリードリヒ2世(大王) プロイセン王(在位1740〜1786年) 啓蒙専制君主の代表とされる。即位直後にシュレジエンへ侵攻し、卓越した軍事的才能でオーストリアを苦しめた。シュレジエン獲得によってプロイセンをヨーロッパ列強の一角に押し上げた。
カール6世 神聖ローマ皇帝・オーストリア大公(在位1711〜1740年) 男子の世継ぎがなく、生前に国事詔書を発布して女子相続の承認を求めた。その努力にもかかわらず死後すぐに戦争が起きた。
カウニッツ(ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ) オーストリア宰相・外交官 マリア=テレジアに仕えた外交の天才。オーストリア継承戦争の教訓を踏まえ、宿敵フランスとの同盟という「外交革命」を実現してシュレジエン奪回を図った。
フランツ1世(フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン) 神聖ローマ皇帝(在位1745〜1765年) マリア=テレジアの夫。戦争中の1745年に神聖ローマ皇帝に選出され、ハプスブルク=ロートリンゲン家の始祖となった。
国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン) 1713年にカール6世が発布した法令。ハプスブルク家の領土の不分割と女子相続を認める内容で、各国に承認を求めた。カール6世の死後に反故にされ、オーストリア継承戦争の原因のひとつとなった。
シュレジエン(シレジア) 現在のポーランド西部からチェコ東部にかけて広がる地域。亜麻・石炭・金属工業が発展した豊かな地域で、オーストリア継承戦争の主な争点となった。アーヘンの和約でプロイセン領に確定した。
アーヘンの和約(エクス=ラ=シャペルの和約) 1748年に締結されたオーストリア継承戦争の講和条約。マリア=テレジアの相続承認とシュレジエンのプロイセン割譲が主な内容。オランダ・フランスの間でも植民地返還などが取り決められた。
外交革命 1756年にオーストリアとフランスが同盟を結んだことで起きたヨーロッパの同盟関係の大転換。それまでハプスブルク対フランスという対立構造が基本だったが、プロイセン(イギリスと同盟)対オーストリア・フランスという新たな枠組みに組み替えられた。七年戦争の前提となった。
啓蒙専制君主 18世紀のヨーロッパで、啓蒙思想の影響を受けながら強力な王権で国家の近代化・合理化を推進した君主たちの総称。フリードリヒ2世(プロイセン)、マリア=テレジア(オーストリア)、エカチェリーナ2世(ロシア)などが代表例とされる。
ハプスブルク家 中世以来ヨーロッパ最大の王朝のひとつ。神聖ローマ帝国皇帝位を事実上独占し、オーストリア・ハンガリー・ボヘミアなどを支配した。カール6世の死後は男系が断絶し、女系のハプスブルク=ロートリンゲン家として存続した。
1 ハンガリー貴族の涙が戦局を変えた戦争初期、オーストリアは各地でフランス・プロイセン連合軍に押され、首都ウィーンも危機にさらされた。絶体絶命のマリア=テレジアはハンガリー議会に赴き、生後数か月の長男ヨーゼフを抱いて支援を訴えた。その姿に感動したハンガリー貴族たちは「我らの命と血をマリア=テレジアのために!」と叫んで大軍を提供したとされ、オーストリアは崩壊を免れた。
2 フリードリヒ大王は哲学者ヴォルテールと親友だったフリードリヒ2世は戦場では冷酷な軍略家だった一方、文化・芸術を愛した啓蒙君主でもあった。フランスの哲学者ヴォルテールとは長年の文通友人で、ベルリン郊外のサンスーシ宮殿に滞在させたこともある。ただし最終的には意見の相違からヴォルテールがプロイセンを去り、関係は疎遠になった。
3 戦争中に生まれた「ジャーナリズムの元祖」的な報道合戦オーストリア継承戦争は、各国が新聞やパンフレットを使って世論を動かした初期の事例のひとつとされる。特にマリア=テレジアの「涙の訴え」やフリードリヒ大王の軍事的勝利は、当時の印刷メディアを通じてヨーロッパ中に広まり、国際世論の形成に影響した。
4 マリア=テレジアは16人の子を産んだマリア=テレジアは戦争中にも出産を続け、生涯で16人の子をもうけた。その子どもたちはフランス・ナポリ・パルマなどの王室に嫁ぎ、外交の道具としても活用された。末娘のマリー=アントワネットはフランス王妃として後のフランス革命で処刑される運命をたどった。
5 「戦争」と「継承問題」は別々に呼ぶべき?歴史学上、オーストリア継承戦争は「シュレジエン継承問題」と「オーストリア全体の継承問題」が同時進行した複合戦争と位置づけられる。プロイセンとオーストリアの間の戦争(第一次・第二次シュレジエン戦争)と、フランス・バイエルンとオーストリアの戦争は、同一の戦争名で括られているが、それぞれ異なる経緯と和平で決着した側面がある。
ここが出る 博士のワンポイント
年号は1740年。語呂は「否、四を(1740)オーストリア継承戦争」。
開戦の直接原因:カール6世が男子の後継ぎなく死去→娘マリア=テレジアが家督継承→プロイセン王フリードリヒ2世(大王)が女子相続に異議を唱えシュレジエン占領。
主な対立構図:プロイセン・フランス・バイエルン・スペイン(対オーストリア側) vs オーストリア・イギリス。
終結:1748年アーヘンの和約(エクス=ラ=シャペルの和約)。マリア=テレジアの相続承認、シュレジエンはプロイセンに割譲。
戦後の影響として「外交革命(1756年)」と「七年戦争(1756〜1763年)」がセットで問われることが多い。
マリア=テレジアは神聖ローマ皇帝位を得ておらず、「女帝」は通称。皇帝位は夫フランツ1世が就いた点に注意。
語呂クイズ
「否、四を(1740)オーストリア継承戦争」= オーストリア継承戦争が始まるは西暦何年?
1701 1740 1748
Q. オーストリア継承戦争はなぜ起きたのですか? A. オーストリア大公カール6世が男子の後継ぎなく1740年に死去し、娘マリア=テレジアが家督を継いだことがきっかけです。プロイセン・フランス・バイエルンなどがこの女子相続に異議を唱え、領土拡大を狙って干渉したため国際戦争になりました。
Q. シュレジエンとはどこにある地域ですか? A. 現在のポーランド西部からチェコ東部にかけて広がる地域で、当時は亜麻・石炭・金属工業が発達した経済的に豊かな土地でした。プロイセン王フリードリヒ2世がこの地域を奪うことを目的のひとつとして開戦しました。
Q. アーヘンの和約の内容を教えてください。 A. 1748年に締結されたこの条約では、マリア=テレジアのハプスブルク家家督相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝位が国際的に承認されました。一方でシュレジエンはプロイセンに割譲されることが確定しました。
Q. 外交革命とは何ですか? A. 1756年、長年の宿敵であったオーストリアとフランスが同盟を結んだ大きな外交転換を指します。オーストリア継承戦争でシュレジエンを失ったマリア=テレジアが、宰相カウニッツを通じてフランスとの同盟を実現しシュレジエン奪回を図りました。この結果、プロイセン・イギリス対オーストリア・フランス・ロシアという新たな同盟関係が生まれ、七年戦争の枠組みとなりました。
Q. マリア=テレジアは「女帝」と呼ばれますが、なぜ皇帝ではないのですか? A. 神聖ローマ皇帝位は当時の選挙制度上、男性の選帝侯が選ぶ形式で決まっていました。マリア=テレジア本人はオーストリア大公・ハンガリー女王・ボヘミア女王の称号を持ちましたが、神聖ローマ皇帝位は夫のフランツ1世が就任しました。「女帝」は通称であり、正式な皇帝位ではありません。
Q. この戦争はどのように七年戦争につながりましたか? A. アーヘンの和約でシュレジエンを失ったオーストリアのマリア=テレジアは、シュレジエン奪回を目指して軍制・行政改革を進めるとともに、フランスとの同盟(外交革命)を実現しました。これに対しプロイセンはイギリスと同盟を結び、1756年にプロイセンがザクセンに先制攻撃して七年戦争が始まりました。オーストリア継承戦争の未解決の争点が引き金となった戦争です。
オーストリア継承戦争は、ハプスブルク家の後継問題をめぐってヨーロッパ列強が入り乱れた8年間の大戦争でした。マリア=テレジアは相続権を守り抜いたものの、富裕な工業地帯シュレジエンをプロイセンに奪われるという痛手を負いました。この結果、従来の宿敵フランスとの同盟(外交革命)という大胆な外交転換が生まれ、七年戦争へと連鎖していきます。「否、四を(1740)オーストリア継承戦争」の語呂とともに、プロイセンの台頭・マリア=テレジアの相続・シュレジエン割譲・外交革命というキーワードの連鎖を押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト) 「第一次シュレジエン戦争(1740〜1742年)」「第二次シュレジエン戦争(1744〜1745年)」はオーストリア継承戦争(1740〜1748年)の一部として組み込まれることが多いが、別立てで扱う記述もある。本文はオーストリア継承戦争全体をひとつの流れとして記述した。 フリードリヒ2世のシュレジエン侵攻の正確な日程については「1740年12月中旬」が通説だが、史料によって若干の差異がある。本文は「1740年12月」と記述した。 マリア=テレジアの「ハンガリー議会での訴え」の逸話(涙と赤子)は後世に脚色された伝説的要素が含まれるとする歴史家もいる。本文では「とされる」と表現を和らげた。 アーヘンの和約の英語表記は「Treaty of Aix-la-Chapelle」だが、本文では日本語(アーヘンの和約)に統一した。 related として 1701-war-of-spanish-succession(スペイン継承戦争)と 1815-vienna-congress(ウィーン会議)を指定されたとおり記載した。存在しないIDがある場合は削除すること。