語呂で覚える世界史年号語呂合わせ・世界史暗記
一覧 / 大航海と宗教改革 / アウクスブルクの和議が結ばれる
アウクスブルクの和議が結ばれるのイラスト
高校/宗教
1555

アウクスブルクの和議が結ばれる

神聖ローマ皇帝カール5世
語呂
覚え方
以後ゴーゴーゴー(1555)アウクスブルクの和議
いごごご(1555)アウクスブルクの和議

1555年、神聖ローマ帝国のアウクスブルクで、皇帝カール5世と帝国議会の諸侯たちのあいだに和議が結ばれました。ルターの宗教改革(1517年)以来、カトリックとルター派(プロテスタント)の対立が続いていた帝国に、ようやく一時的な平和がもたらされたのです。この和議の核心は「領主が自分の領地の宗派をカトリックかルター派かから選べる」という原則です。ただし住民個人が信仰を自由に選ぶことは認められず、カルヴァン派も除外されました。この不完全な妥協は半世紀後の三十年戦争(1618年)の火種となりますが、宗教的多元性を公式に認めた最初の国際合意として世界史に刻まれています。

この記事のポイント

  • 1555年、神聖ローマ帝国でアウクスブルクの和議が結ばれ、ルター派(プロテスタント)が帝国内で公式に容認された
  • 「領主の宗教がその領地に行われる」原則により、諸侯(領邦君主)は自領の宗派をカトリックかルター派かから選べることになった
  • 住民個人に信仰の自由は認められず、領主の宗派に従うか、他領地へ移住するかしかなかった
  • カルヴァン派は和議の対象外とされ、承認されなかった
  • この不完全な解決が、のちの三十年戦争(1618〜1648年)の遠因の一つとなった
ここが面白い

「領主の宗教がその領地に行われる」――国の宗教を王や貴族が決めるという考え方を、ヨーロッパの歴史上はじめて公式に認めたのが1555年のアウクスブルクの和議だった。

ここに至るまでの流れ
背景

アウクスブルクの和議は突然現れたわけではありません。ルターの宗教改革から始まる約40年にわたる対立と戦争の末に生まれた妥協の産物です。その流れを順に見ていきましょう。

ルターの宗教改革とプロテスタントの誕生

1517年、マルティン・ルターが免罪符(贖宥状)の販売を批判する「九十五か条の論題」を発表し、ローマ・カトリック教会への改革を訴えました。この動きはプロテスタント(抗議者)運動として急速に広まり、神聖ローマ帝国内の多くの諸侯や都市がルター派に改宗しました。カトリックを守ろうとする皇帝カール5世との対立は避けられないものになりました。

シュマルカルデン同盟と宗教戦争

ルター派の諸侯たちは1531年にシュマルカルデン同盟を結成し、皇帝に対抗しました。1546〜1547年のシュマルカルデン戦争では皇帝側が軍事的に勝利しましたが、アウクスブルク仮協定(1548年)でルター派に妥協を迫ったことへの反発や、フランス・オスマン帝国への対応も重なり、皇帝は帝国内を完全に掌握することができませんでした。

カール5世の限界と交渉への転換

カール5世はスペイン王を兼ねる広大な帝国の君主でしたが、複数の戦線を抱え、宗教問題だけに集中できない状況でした。1552年にはルター派諸侯がフランスと結んでカール5世を一時的に追い詰めるほどでした。もはや武力による宗教統一は現実的でないと判断した皇帝は、弟フェルディナントに交渉を委ねる形で和議へと方向転換しました。

アウクスブルクの和議の主な内容

1555年9月、帝国議会がアウクスブルクで和議を確認しました。主な内容は次のとおりです。①諸侯は自領の宗派をカトリックかルター派かから選択できる(領主の宗教がその領地に行われる原則)。②ルター派の諸侯・都市の信仰・財産権は保障される。③住民は移住の自由が認められるが、信仰を個人で自由に選ぶ権利はない。④カルヴァン派は対象外とされた。この和議は宗教的多元性を帝国内で初めて公式に認めたものでした。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

ルター派の公式容認

≒ 宗教的少数派を国家が正式に認める仕組みの原点

それまで「異端」扱いだったルター派が、帝国の法的枠組みの中で正式に認められた。宗教的多元性を国家が受け入れた初の公式合意。

領主が宗派を選ぶ権利(領邦教会制の確立)

≒ 国の宗教を政府が決めるという考え方

「領主の宗教がその領地に行われる」という原則が確立した。これにより帝国内は多数の小さな宗教的単位に分かれ、諸侯の自立性がさらに強まった。

住民個人の信仰の自由は認めず

≒ 国家の方針と個人の自由との矛盾

住民は領主の宗派に従う義務があり、従えない場合は別の領地へ移住するしかなかった。個人の信仰の自由という考え方はまだ存在せず、これが後の争いの火種となった。

前後のできごと
年表
1517
宗教改革の開始マルティン・ルターが「九十五か条の論題」を発表。カトリック教会への批判が広まる。
1521
ウォルムス帝国議会カール5世がルターを召喚。ルターは自説の撤回を拒否し、帝国追放令を受ける。
1531
シュマルカルデン同盟結成ルター派諸侯が皇帝に対抗するため軍事同盟を結成。
1546
シュマルカルデン戦争開始皇帝カール5世がルター派諸侯の同盟に対して軍事行動を開始。
1547
ミュールベルクの戦い皇帝軍がルター派諸侯を破り、同盟の中心人物を捕虜にする。
1548
アウクスブルク仮協定皇帝がルター派に対し一時的な妥協案を提示するが、双方から不満が続出。
1552
パッサウ条約ルター派諸侯がフランスと組んで反皇帝行動。カール5世が和解に応じ、本格交渉への道が開かれる。
1555
アウクスブルクの和議9月25日、帝国議会がアウクスブルクの和議を確認。ルター派が帝国内で公式に容認される。
1556
カール5世の退位和議の翌年、カール5世は退位。帝国はスペイン(息子フェリペ2世)とオーストリア・神聖ローマ皇帝(弟フェルディナント1世)に分割される。
1618
三十年戦争の勃発カルヴァン派の扱いや和議の解釈をめぐる対立が激化し、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争が始まる。
結果とその後
結果
ルター派が帝国内で公式に認められ、約40年続いた宗教戦争に一時的な終止符が打たれた。「宗教的多元性を国家が公式に認める」という考え方の先例となり、後の宗教的寛容の歴史につながった。
カルヴァン派が除外されたこと、住民個人の信仰の自由が認められなかったことなど不完全な妥協であり、解決されなかった宗教的対立が三十年戦争(1618〜1648年)の主要な原因の一つとなった。また和議はルター派諸侯の権限を強化したため、皇帝権力の弱体化にもつながった。
登場人物
人物

カール5世

神聖ローマ皇帝・スペイン王(在位1519〜1556年)

宗教改革を異端として弾圧しようとしたが、多方面の問題に追われ完全な宗教統一を果たせなかった。和議の翌年に退位し、帝国をスペインとオーストリアに分割した。

マルティン・ルター

ドイツの神学者・宗教改革者

1517年に宗教改革を開始した中心人物。和議の時点ではすでに死去(1546年没)していたが、ルター派の名はその思想を受け継ぐ宗派として帝国内で公認されることになった。

フェルディナント1世

カール5世の弟・後の神聖ローマ皇帝

カール5世に代わって和議の交渉を実質的に取り仕切った。カール5世退位後は神聖ローマ皇帝を継ぎ、オーストリア・ハプスブルク家の祖となった。

フィリップ2世

スペイン王(カール5世の息子)

カール5世の退位によりスペイン王位を継承。カトリックの守護者を自任し、後のヨーロッパ宗教政策に大きな影響を与えた。

キーワード解説
用語
アウクスブルクの和議
1555年に神聖ローマ帝国議会がアウクスブルクで確認した宗教的妥協の合意。ルター派を帝国内で公式に容認し、諸侯が領地の宗派を選べる原則を定めた。
領邦教会制
「領主の宗教がその領地に行われる」という原則にもとづき、各領邦(小国家)の君主が領内の教会を監督・支配する制度。アウクスブルクの和議によって確立した。
ルター派(プロテスタント)
マルティン・ルターの宗教改革の流れをくむキリスト教の宗派。聖書の権威を重視し、ローマ・カトリック教会の権威や免罪符販売を批判した。アウクスブルクの和議で帝国内での地位が公認された。
カルヴァン派
ジャン・カルヴァンの思想にもとづくプロテスタントの一派。予定説を唱え、スイス・フランス・オランダなどに広まった。アウクスブルクの和議では認められず、のちの三十年戦争の原因の一つとなった。
三十年戦争
1618〜1648年にヨーロッパで起きた大規模な宗教・政治戦争。アウクスブルクの和議が解決できなかったカルヴァン派問題や宗派間の対立が爆発した。ウェストファリア条約(1648年)で終結。
もっと知りたい
豆知識

1「退位した皇帝」カール5世の晩年

アウクスブルクの和議の翌1556年、カール5世は皇帝位と王位を息子・弟に譲って引退し、スペインの修道院に隠棲した。「宗教統一という生涯の夢を果たせなかった」という言葉を残したとも伝えられ、彼の退位はルター派容認への深い失望の表れとも見られている。

2和議の名前の由来は開催都市

「アウクスブルク」は現在のドイツ南部バイエルン州にある都市。古代ローマ時代から交易の要衝で、中世には富裕な商人フッガー家の本拠地としても知られた。帝国議会がこの都市で開催されたことから、和議の名前に使われている。

3「移住の自由」という抜け穴

住民個人に信仰の自由は認められなかったが、領主の宗派に従えない住民は財産を持って別の領地へ移住する自由が保障された。これを「移住の自由(ius emigrandi)」という。事実上、信仰の不一致は人々の移動を促し、帝国内各地の宗派分布を大きく変えることになった。

4カルヴァン派の扱いがのちの三十年戦争の火種に

和議はカトリックとルター派の二択しか認めなかった。しかし16世紀後半にはカルヴァン派が帝国内にも広まり、ルター派の一部諸侯がカルヴァン派に改宗した。法的に認められていないカルヴァン派の地位をめぐる対立は、1618年の三十年戦争勃発の重要な一因となった。

5ウェストファリア条約との対比

三十年戦争を終わらせた1648年のウェストファリア条約は、アウクスブルクの和議を大幅に拡張し、カルヴァン派も正式に認めたうえ、個人の信仰の自由をより広く保障した。近代の国際秩序の出発点とされるウェストファリア条約を理解するうえで、アウクスブルクの和議はその限界を示す前提として欠かせない。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1555年。語呂は「以後ゴーゴーゴー(1555)アウクスブルクの和議」。
「領主の宗教がその領地に行われる」原則が確立した。諸侯はカトリックかルター派かを選べるようになった。
住民個人の信仰の自由は認められなかった。領主の宗派に従うか他領地へ移住するかしかなかった点に注意。
カルヴァン派は和議の対象外とされ、認められなかった。これがのちの三十年戦争(1618年)の火種の一つとなった。
和議の翌年(1556年)、カール5世は退位した。帝国はスペイン(フェリペ2世)とオーストリア・神聖ローマ帝国(フェルディナント1世)に分かれた。
語呂クイズ
「以後ゴーゴーゴー(1555)アウクスブルクの和議」= アウクスブルクの和議が結ばれるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. アウクスブルクの和議とはどんなできごとですか?
A. 1555年に神聖ローマ帝国で結ばれた宗教的な和解の合意です。ルター派(プロテスタント)が帝国内で公式に認められ、諸侯が自分の領地の宗派をカトリックかルター派かから選べるようになりました。
Q. なぜカール5世はルター派を認めることになったのですか?
A. 宗教改革以来40年近く続いた宗教対立と戦争、フランスやオスマン帝国との外交問題も重なり、武力だけで宗教統一を果たすことが不可能になったからです。疲弊した皇帝は最終的に妥協を選びました。
Q. 住民は自分で宗教を選べましたか?
A. いいえ。住民個人の信仰の自由は認められず、原則として領主の宗派に従う義務がありました。従えない場合は財産を持って他の領地へ移住することは認められましたが、その地にとどまって別の宗派を信仰する自由はありませんでした。
Q. カルヴァン派はなぜ認められなかったのですか?
A. 和議はあくまでカトリックとルター派の二者間の妥協として結ばれたためです。カルヴァン派は交渉の当事者に含まれず、法的に認められませんでした。これが後に三十年戦争の原因の一つとなりました。
Q. アウクスブルクの和議と三十年戦争はどう関係しますか?
A. 和議はカルヴァン派を認めず、住民個人の信仰の自由も保障しませんでした。この不完全な妥協が解決されないまま半世紀たち、カルヴァン派の扱いや宗派間の対立が爆発して1618年の三十年戦争につながりました。
まとめ

アウクスブルクの和議は、ルターの宗教改革から約40年間続いた宗教対立に一時的な終止符を打ったできごとです。「領主の宗教がその領地に行われる」という原則は、宗教的多元性を公式に認めた歴史上最初の合意の一つとして評価されます。しかし住民個人の信仰の自由やカルヴァン派の扱いは棚上げにされたままであり、この不完全な妥協がのちの三十年戦争を招きました。「以後ゴーゴーゴー(1555)アウクスブルクの和議」の語呂とともに、ルター派容認・領主による宗派選択・カルヴァン派除外という三つのポイントをしっかり押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
「領主の宗教がその領地に行われる(Cuius regio, eius religio)」という定式は、和議の文書そのものの表現ではなく後世の法学者がまとめたラテン語句だが、和議の実質を正確に表すものとして通説的に用いられているため使用した。
フェルディナント1世のpeopleフィールドに誤って'text'キーが混入しないよう、'note'のみで記述した。
カール5世の退位年は1556年(スペイン王位は1556年、神聖ローマ皇帝位は1558年正式確認)だが、一般に1556年退位として扱われるため1556年で統一した。