高校/社会
1533
ピサロがインカ帝国を滅ぼす
フランシスコ・ピサロ(スペイン)
語呂
覚え方
以後ささっと(1533)インカ征服
いごささ(1533)インカ帝国滅亡
1533年、スペインのコンキスタドール(征服者)フランシスコ・ピサロは、南米アンデス山脈に君臨したインカ帝国を征服・滅亡させました。前年の1532年、ピサロはわずか168人の兵士でインカ皇帝アタワルパを奇襲・捕縛し、莫大な金銀の身代金を受け取った後に処刑。1533年には都クスコを占領してインカ帝国を事実上崩壊させました。征服を可能にした要因は、帝位継承をめぐるインカ内戦による弱体化、天然痘などの疫病による人口激減、そして鉄製武器・馬・火器という圧倒的な技術的優位でした。この征服によって奪われた大量の金銀はヨーロッパに流入し、価格革命をもたらすなど、世界史に深刻な影響を与えました。
この記事のポイント
- 1533年、スペイン人ピサロがインカ皇帝アタワルパを処刑し、都クスコを占領してインカ帝国を滅亡させた
- 征服前年(1532年)のカハマルカの奇襲でアタワルパを捕え、莫大な金銀の身代金を得た後に処刑した
- インカ内戦による分裂、天然痘による人口激減、馬・鉄・火器の技術格差がわずかな兵力での征服を可能にした
- 征服後にピサロはリマを建設し、スペインの南米支配の拠点とした
- 奪われた金銀がヨーロッパへ流入し、価格革命の一因となるなど世界経済にも大きな影響をもたらした
ここが面白いわずか168人のスペイン兵が、人口数百万を誇る南米最大の帝国を滅ぼした――この信じがたい出来事は、なぜ起きたのか?
インカ帝国の滅亡は一夜にして起きたわけではありません。スペインによるアメリカ大陸への進出、インカ帝国内部の矛盾、そして圧倒的な技術格差という複数の要因が重なった末の出来事でした。その背景を順に見ていきましょう。
インカ帝国の繁栄と内戦
インカ帝国は現在のペルー・エクアドル・ボリビア・チリ・アルゼンチン北部にまたがる広大な国家で、15世紀末には人口数百万とも言われる南米最大の帝国に成長しました。しかし1527年ごろ、皇帝ワイナ・カパックが天然痘で急死した後、息子のアタワルパ(北部勢力)とワスカル(クスコ・南部勢力)の間で帝位継承をめぐる内戦が起きました。アタワルパはこの内戦に勝利しましたが、帝国は疲弊し分裂状態にありました。
スペインのコンキスタドール
スペインは1492年のコロンブスのアメリカ到達以降、カリブ海・メキシコへの征服を進めていました。1521年にエルナン・コルテスがアステカ帝国を滅ぼした成功に刺激を受け、フランシスコ・ピサロは南米に大帝国があるという情報をもとに1531年に遠征を開始。わずか168人の兵士と馬・火砲を率いてアンデスへ向かいました。
カハマルカの奇襲(1532年)
1532年11月、ピサロはカハマルカでアタワルパ皇帝と会見を設定しました。広場に出てきた数千人の護衛を持つアタワルパに対し、ピサロは突然奇襲を仕掛け、馬・火砲・鋼鉄の武器でインカ軍を混乱させ、皇帝を捕縛しました。アタワルパは身代金として部屋いっぱいの金と銀を2部屋分提供することを約束。ピサロはこれを受け取った後、1533年7月にアタワルパを処刑しました。
クスコ占領とインカの滅亡(1533年)
アタワルパ処刑後、ピサロは傀儡(かいらい)の皇帝を立てながら南下し、1533年11月にインカの都クスコを占領しました。これによってインカ帝国は事実上滅亡し、スペインの植民地支配が始まりました。ピサロは1535年にリマを建設してスペイン支配の中心地とし、南米のスペイン領ペルー副王領の基盤が築かれました。
カハマルカの奇襲と皇帝捕縛
≒ 情報・心理戦による電撃作戦1532年、ピサロは168人という少数でインカ皇帝アタワルパと数千人の護衛に奇襲をかけ、火砲・馬・鉄の武器で混乱させ皇帝を捕縛した。身代金として莫大な金銀を得た後、皇帝を処刑した。
技術格差による圧倒的優位
≒ 軍事技術の差が文明の命運を変えるインカ軍は石・銅の武器と徒歩戦に頼っていたが、スペイン軍は鋼鉄の剣・甲冑・火縄銃・馬を持っていた。特に馬はインカ人が見たことのない動物で、騎馬突撃は心理的恐怖をも与えた。
疫病と内戦が招いた弱体化
≒ 外敵に備えられなかった内部分裂の代償天然痘などスペイン人が持ち込んだ疫病がアンデスに蔓延し、インカの人口は激減した。加えて帝位継承内戦でインカ国内が分裂しており、統一した抵抗が困難な状態にあった。
1438インカ帝国の拡大パチャクテク王がインカ帝国の大拡張を開始。以後、南米太平洋岸を中心に広大な帝国を形成。
1492コロンブス到達コロンブスがカリブ海に到達。スペインのアメリカ大陸進出が始まる。
1521アステカ帝国滅亡コルテスがメキシコのアステカ帝国を滅ぼす。スペインの征服者たちが南米の大帝国へ目を向ける契機となった。
1527インカ内戦の始まり皇帝ワイナ・カパックが天然痘で急死。アタワルパとワスカルの兄弟による帝位継承内戦が勃発し、帝国が分裂。
1531ピサロ南米へフランシスコ・ピサロが168人の兵士を率いてパナマを出発、インカ帝国への遠征を開始。
1532カハマルカの奇襲11月、ピサロがカハマルカでインカ皇帝アタワルパを奇襲・捕縛。身代金として大量の金銀を徴収。
1533アタワルパ処刑・クスコ占領7月にアタワルパを処刑。11月にインカの都クスコを占領し、インカ帝国を事実上滅亡させた。
1535リマ建設ピサロがリマ(現ペルーの首都)を建設。スペイン植民地支配の中心地となった。
1545ポトシ銀山発見現ボリビアのポトシで大銀山が発見される。大量の銀がヨーロッパへ輸出され、価格革命の一因となった。
1572最後のインカ抵抗勢力滅亡クスコ奥地に逃れた最後のインカ皇帝トゥパク・アマルが処刑され、インカ帝国の抵抗が完全に終焉した。
◎スペインはペルー副王領を設立し、南米支配の拠点を確立した。ポトシ銀山など膨大な銀・金の採掘がヨーロッパへの貴金属流入を生み、16〜17世紀の価格革命(インフレーション)の一因となり、ヨーロッパ経済の転換点をもたらした。
△征服はインカの人々にとって壊滅的な災害だった。強制労働(ミタ制)・疫病・文化破壊によってアンデス先住民の人口は激減し、高度な文明・建築・農業技術の多くが失われた。スペインの南米支配は植民地支配の原型の一つとして、今日も歴史的評価が問われ続けている。
フランシスコ・ピサロ
スペインのコンキスタドール(征服者)スペイン、エストレマドゥーラ地方出身の低い身分の出自。コルテスのアステカ征服に刺激を受け、168人の兵士でインカ帝国を征服した。1535年にリマを建設。1541年に同僚の部下に暗殺された。
アタワルパ
インカ帝国最後の皇帝(在位1532〜1533年)内戦で兄ワスカルを破りインカ皇帝となったが、カハマルカでピサロに奇襲・捕縛された。部屋いっぱいの金銀を身代金として提供したが、1533年7月に処刑された。
ワイナ・カパック
インカ帝国第11代皇帝インカ帝国の最盛期を築いた皇帝。1527年ごろ天然痘(スペイン人が持ち込んだとされる)で急死し、後継者争いによるインカ内戦の引き金となった。
エルナン・コルテス
スペインのコンキスタドール(メキシコ征服者)1521年にアステカ帝国を滅ぼしたスペイン人征服者。ピサロはコルテスのいとこにあたるという説もある。その成功がピサロのインカ遠征の意欲をかき立てた。
- コンキスタドール
- スペイン語で「征服者」の意味。15〜17世紀にスペインがアメリカ大陸の先住民文明を征服するために派遣した軍人・冒険家たちの総称。コルテス・ピサロが代表例。
- インカ帝国
- 15〜16世紀にアンデス山脈を中心に南米太平洋岸に広がった帝国。ケチュア語圏の先住民が建設し、クスコを首都とした。精巧な道路網・灌漑農業・石造建築などで知られる。
- 価格革命
- 16〜17世紀にヨーロッパで起きた長期的なインフレーション。スペインが南米から大量に輸入した金銀が貨幣として流通し、物価が急騰した。インカ・アステカ征服による貴金属流入がその一因とされる。
- ポトシ銀山
- 現在のボリビアに位置する世界有数の銀山。1545年に発見され、植民地時代に大量の銀を産出。インカの先住民が強制労働(ミタ制)で働かされ、多くの犠牲者を出した。
- ミタ制
- インカ帝国にあった労役制度をスペインが転用・強化したもの。先住民を銀山・農場などへの強制労働に動員する仕組みで、過酷な環境のもとで多くの先住民が命を落とした。
1168人で数百万人の帝国を征服
ピサロが率いた兵力はわずか168人(騎馬兵62・歩兵106)だった。対してインカ皇帝アタワルパはカハマルカに数万の軍勢を率いていたとされる。この圧倒的な兵力差にもかかわらず奇襲が成功したのは、インカ人が火砲・馬・鉄を知らず、初見の衝撃で統率が崩れたためとされる。
2部屋いっぱいの金銀が身代金
捕縛されたアタワルパは、幅6.7m・長さ5.2mの部屋を金で一杯にし、さらに銀を2部屋分提供することを条件に釈放を要求した。インカ人は実際にこれを実行したが、ピサロはその後アタワルパを処刑した。集められた金の量は6トン以上とも推計されている。
3天然痘がインカ人口を激減させた
スペイン人が接触する以前に、天然痘などのヨーロッパ由来の疫病がアンデス地方に先行して広まっていたとされる。インカの人口は征服前後の数十年で激減したとみられており、征服の直接の「武器」は鉄砲よりも疫病だったという見方もある。
4ピサロ自身も部下に暗殺された
インカ征服後のピサロは同僚コンキスタドールのアルマグロと対立し、アルマグロを処刑した。しかし1541年、アルマグロの息子たちがリマのピサロ邸に押し入りピサロを暗殺した。征服者同士が利権をめぐり争い、悲惨な末路をたどることが多かった。
5インカ道路は現代も一部現役
インカ帝国が築いた「カパック・ニャン(王の道)」は全長約3万kmにもおよぶ道路網で、アンデス山脈を縦断した。スペインの征服後も一部は使われ続け、現在もユネスコ世界遺産として認定されている区間が残る。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1533年。語呂は「以後ささっと(1533)インカ征服」。
征服者はスペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロ。カハマルカでインカ皇帝アタワルパを捕縛・処刑し、都クスコを占領した。
征服が成功した三大要因:①インカの帝位継承内戦による分裂・弱体化、②天然痘などの疫病による人口激減、③馬・火砲・鉄製武器という技術的優位。
征服によって奪われた大量の金銀がヨーロッパへ流入し、価格革命(物価騰貴)の一因となった。ポトシ銀山もセットで覚える。
同時期のアステカ帝国滅亡(1521年・コルテス)と合わせて整理すること。スペインによる中南米征服の二大事件として入試頻出。
語呂クイズ
「以後ささっと(1533)インカ征服」= ピサロがインカ帝国を滅ぼすは西暦何年?
- Q. なぜたった168人でインカ帝国を征服できたのですか?
- A. 主な理由は三つです。①帝位継承をめぐるインカ内戦で帝国が分裂・弱体化していたこと、②スペイン人が持ち込んだ天然痘などの疫病がアンデス先住民に壊滅的な被害を与えていたこと、③馬・鉄製武器・火縄銃というインカ人が見たことのない軍事技術を持っていたことが挙げられます。
- Q. アタワルパはなぜ処刑されたのですか?
- A. ピサロはアタワルパから莫大な金銀の身代金を受け取った後も、アタワルパが生き続けることでインカ人の抵抗の象徴になることを恐れ、キリスト教徒に改宗させた上で処刑しました。約束を守らなかったこの行為は、スペイン本国でも批判がありました。
- Q. インカ帝国滅亡後、アンデスの先住民はどうなりましたか?
- A. スペインの植民地支配の下、先住民はミタ制と呼ばれる強制労働制度でポトシ銀山などで働かされました。疫病・過酷な労働・文化の破壊などにより、先住民の人口は征服後の数十年で激減したとされています。
- Q. インカ征服はヨーロッパにどんな影響を与えましたか?
- A. 征服によって得られた大量の金銀がヨーロッパに流入し、貨幣量が増大しました。これが物価の急激な上昇(価格革命)を引き起こし、封建的な地代収入に頼る領主層を没落させる一方、商人資本の台頭を後押しするなど、ヨーロッパの社会・経済構造の変化につながりました。
- Q. アステカ帝国の滅亡とインカ帝国の滅亡の違いは何ですか?
- A. アステカ帝国(1521年)はコルテスによってメキシコで滅ぼされ、インカ帝国(1533年)はピサロによって南米ペルーで滅ぼされました。どちらもスペインのコンキスタドールによる征服で、疫病・分裂・技術格差が征服を可能にした点は共通しています。セットで覚えておくと整理しやすいです。
1533年のインカ帝国滅亡は、わずか168人のスペイン兵が人口数百万の帝国を征服したという衝撃的な出来事です。その背景には、インカ内戦による分裂・弱体化、疫病による人口激減、そして馬・火砲・鉄という圧倒的な技術格差がありました。征服後に流れ込んだ膨大な金銀はヨーロッパの価格革命を引き起こし、世界経済の転換点にもなりました。「以後ささっと(1533)インカ征服」の語呂とともに、同年代のアステカ帝国滅亡(1521年)と並べて、スペインの中南米征服という大きな流れをしっかり押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
アタワルパの身代金の量(部屋いっぱいの金・銀2部屋)は一次史料に基づく通説として記述した。正確な量については推計に幅がある。
ピサロとコルテスの親族関係(いとこ説)は通説として広く言及されるが、史料上の確実性に議論があるため、trivia内で「という説もある」と断りを入れた。
天然痘がスペイン人接触以前から先行して広まっていたという説は近年の研究で有力視されているが、教科書的な記述では「スペイン人が持ち込んだ」とする場合もあるため、両方に配慮した表現とした。
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