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高校/政治
962

オットー1世が戴冠し神聖ローマ帝国が成立する

オットー1世(東フランク王・初代神聖ローマ皇帝)
語呂
覚え方
苦労に(962)報い神聖ローマ
くろに(962)神聖ローマ帝国

962年2月2日、東フランク(ドイツ)王オットー1世はローマで教皇ヨハネス12世から帝冠を授けられました。これが後に「神聖ローマ帝国」と呼ばれる国家の始まりとされています。オットー1世は955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人(ハンガリー人)の侵攻を大破し、西ヨーロッパの守護者として絶大な名声を得ていました。戴冠によってドイツ王が「西ローマ皇帝の後継者」を名乗る慣行が生まれ、以後800年以上にわたって帝国は存続します。ただし「神聖ローマ帝国」という正式名称は12〜13世紀に定着したものであり、962年当時からそう呼ばれていたわけではありません。また、実態は統一国家ではなく、ドイツの諸侯・司教・自由都市などが緩やかにまとまる分権的な連合体でした。

この記事のポイント

  • 962年、東フランク王オットー1世が教皇ヨハネス12世からローマで帝冠を授けられ、神聖ローマ帝国が成立
  • 955年レヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退し、西ヨーロッパの守護者として名声を得た実績が戴冠の背景にある
  • 「神聖ローマ帝国」という名称は後世(12〜13世紀)に定着したもので、成立当初からそう呼ばれたわけではない
  • 皇帝はドイツ国内の司教・修道院長を任命して帝国を統治する「帝国教会政策」を推進した(のちの叙任権闘争の火種)
  • 帝国は事実上、統一国家ではなく諸侯・司教・自由都市などの分権的連合体であり、皇帝権は次第に弱体化していった
ここが面白い

「ドイツの王がローマ皇帝になれる」――この奇妙な伝統は、10世紀にオットー1世が教皇から冠を受けた一日から始まった。

ここに至るまでの流れ
背景

神聖ローマ帝国の成立は突然の出来事ではなく、カロリング朝崩壊後の権力の空白、マジャール人の侵攻、そしてオットー1世の台頭という流れの中で生まれたものです。その背景を順に見ていきましょう。

カロリング朝の崩壊と東フランクの独立

9世紀末にカール大帝が作ったフランク王国は分裂し、東・中・西フランクに三分された(843年ヴェルダン条約)。東フランク(のちのドイツ)ではカロリング朝が919年に断絶し、ザクセン公ハインリヒ1世が諸侯に選ばれて王位に就いた。これがザクセン朝の始まりで、オットー1世はその息子にあたる。東フランクは君主を諸侯が選出する「選挙王制」であり、王権は本質的に不安定だった。

レヒフェルトの戦い(955年)とオットー1世の名声

マジャール人(ハンガリー人)は9世紀末から西ヨーロッパに繰り返し侵入し、フランク・イタリア・バイエルン各地を略奪した。955年8月、オットー1世はバイエルン南部のレヒフェルト(アウクスブルク近郊)で大軍を率いてマジャール軍を壊滅させた。この勝利でオットー1世は「諸侯の上に立つ守護者」としての権威を確立し、西ヨーロッパ全土で英雄視された。

教皇との取引と962年の戴冠

ローマ教皇ヨハネス12世は北イタリアの有力貴族ベレンガール2世の圧力に悩んでいた。そこでオットー1世に援軍を要請し、その見返りとして帝冠を与える約束をした。オットー1世はイタリアに遠征してベレンガールを退け、962年2月2日にローマで教皇から皇帝の冠を授けられた。これは800年のカール大帝の戴冠(800年)を意識したものであり、西ローマ帝国の権威の復活を意味した。

帝国教会政策と後の叙任権闘争

オットー1世は帝国統治のために「帝国教会政策」を採用し、国内の司教・修道院長を皇帝自らが任命して行政・軍事の担い手とした。聖職者は婚姻できないため世俗貴族のように領地を世襲せず、皇帝への依存度が高かった。しかしこの方針は「聖職者の任命は教皇の権限」とするローマ教皇との対立を生み、11世紀末の叙任権闘争(1077年カノッサの屈辱など)へとつながっていく火種となった。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

ドイツ王がローマ皇帝を兼ねる慣行の成立

≒ EU議長国が事実上の欧州代表を務めるようなイメージ

以後、東フランク(ドイツ)王が帝位を継ぐ慣行が定着し、「ドイツ王=ローマ皇帝」という二重の権威を持つ独特の制度が生まれた。

帝国教会政策による中央集権化

≒ 国家公務員として聖職者を登用するイメージ

皇帝が司教・修道院長を任命し、行政・財政・軍事を担わせた。聖職者は世俗領主より皇帝に忠実とされたが、後に教皇との衝突を招いた。

西ヨーロッパにおける「帝国」概念の継承

≒ ブランドとしての「ローマ」を誰が引き継ぐかをめぐる争い

962年の戴冠はカール大帝800年の戴冠に倣い、西ローマ帝国の後継を主張するものだった。この「ローマ帝国の継承」という概念が神聖ローマ帝国のアイデンティティの核となった。

前後のできごと
年表
843
ヴェルダン条約フランク王国が東・中・西フランクに三分割される。東フランクがのちのドイツの原型となる。
919
ザクセン朝成立ザクセン公ハインリヒ1世が東フランク王に選出され、ザクセン朝が始まる。オットー1世の父。
936
オットー1世即位ハインリヒ1世の死後、息子オットー1世が東フランク王に即位。アーヘンで荘厳な戴冠式を挙行し、カール大帝の後継者であることを示した。
951
第1回イタリア遠征オットー1世がイタリアに遠征し、イタリア王ロタールの未亡人アーデルハイトと結婚してイタリアを支配下に収める。
955
レヒフェルトの戦いバイエルン南部でマジャール人(ハンガリー人)の大軍を撃滅。西ヨーロッパへの侵入を決定的に止め、英雄的名声を確立した。
961
第2回イタリア遠征教皇ヨハネス12世の要請を受けてイタリアに再遠征。ベレンガール2世を退けローマに入城する。
962
皇帝戴冠(神聖ローマ帝国成立)2月2日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で教皇ヨハネス12世によりオットー1世が皇帝に戴冠される。これが神聖ローマ帝国の起源とされる。
963
教皇ヨハネス12世を廃位オットー1世が反抗的になった教皇ヨハネス12世をローマ会議で廃位。皇帝権が教皇権を上回る場面が早くも生じた。
973
オットー1世死去オットー1世がメムレーベンで死去し、自らが創設したマクデブルク大聖堂に葬られた。息子オットー2世が帝位を継ぎ、ザクセン朝が続いた。
1157
「神聖帝国」の名称初出フリードリヒ1世(バルバロッサ)の時代に「神聖帝国」という呼称が使われ始め、その後「神聖ローマ帝国」として定着した。
結果とその後
結果
西ヨーロッパにローマ皇帝の権威を継ぐ政治体制が成立し、以後800年以上にわたって帝国は存続した。また帝国教会政策によりドイツ内の分権的諸侯を一定程度まとめる統治基盤が生まれた。
帝国は事実上、統一国家ではなく諸侯・司教・自由都市の緩やかな連合体であり、皇帝権は時代とともに弱体化した。帝国教会政策は後の叙任権闘争(グレゴリウス7世とハインリヒ4世の対立)を招く火種となった。また「神聖ローマ帝国」の名称は後世の呼称であり、962年当時から使われていたわけではない点に注意。
登場人物
人物

オットー1世

東フランク王・初代神聖ローマ皇帝(在位936〜973年)

マジャール人撃退の英雄。962年に教皇から帝冠を授けられ、ドイツ王が皇帝を兼ねる慣行を作った。帝国教会政策でドイツを統治し、後世から「大帝(オットー大帝)」と称される。

ヨハネス12世

ローマ教皇(在位955〜964年)

北イタリア貴族の圧力に悩み、オットー1世に援軍を求めて帝冠を与えた。しかし戴冠後に関係が悪化し、963年にオットー1世によって廃位された。

ハインリヒ1世

オットー1世の父・初代ザクセン朝東フランク王(在位919〜936年)

ザクセン公から諸侯に選ばれた王。マジャール人・スラブ人との戦争を巧みにしのぎ、オットー1世の治世の基礎を作った。

ベレンガール2世

イタリア王(在位950〜961年)

北イタリアを支配していた有力貴族。教皇ヨハネス12世を圧迫したため、オットー1世のイタリア遠征を招く口実となった。オットー1世に降伏・捕縛された。

キーワード解説
用語
神聖ローマ帝国
962年のオットー1世の戴冠を起源とし、1806年まで続いたドイツを中心とする政治体制。「神聖ローマ帝国」という名称自体は12〜13世紀に定着したもの。実態は中央集権的な統一国家ではなく、多数の諸侯・司教・自由都市が皇帝の下に緩やかにまとまる分権的な連合体だった。
帝国教会政策
オットー1世が実施した統治方針で、皇帝が国内の司教・修道院長を任命し、土地・行政・軍事を担わせる制度。聖職者は結婚・世襲ができないため、世俗貴族より皇帝への忠誠度が高いとされた。後の叙任権闘争の原因となった。
レヒフェルトの戦い
955年8月、バイエルン南部(アウクスブルク近郊)でオットー1世がマジャール人の大軍を撃滅した戦い。マジャール人の西ヨーロッパへの侵入を事実上終わらせ、オットー1世の名声を決定的に高めた。
叙任権闘争
11〜12世紀に皇帝と教皇の間で争われた、聖職者(司教など)を誰が任命するかをめぐる権力闘争。1077年の「カノッサの屈辱」が有名。神聖ローマ帝国の帝国教会政策がその直接の火種となった。
ザクセン朝
919年から1024年まで続いた東フランク(ドイツ)の王朝。ハインリヒ1世・オットー1世・オットー2世・オットー3世・ハインリヒ2世と続いた。オットー朝ともいう。神聖ローマ帝国の基礎を作った。
もっと知りたい
豆知識

1「神聖ローマ帝国」はフランス語で皮肉を言われた

18世紀のフランスの思想家ヴォルテールは神聖ローマ帝国を「神聖でも、ローマ的でも、帝国でもない」と評したとされる。実際に帝国はドイツ中心でありローマの実効支配はなく、皇帝権も時代とともに弱体化していた。この言葉は帝国の実態を鋭く突いた批評として有名だが、ヴォルテールの著作中の正確な引用箇所については諸説ある。

2戴冠式は「サン・ピエトロ大聖堂」で行われた

962年2月2日の戴冠式はローマのサン・ピエトロ大聖堂で行われた。同じ場所では800年にカール大帝が戴冠されており、オットー1世の戴冠はその再現を強く意識したものとされている。中世においてローマでの戴冠は皇帝の正統性の証明として大きな意味を持っていた。

3マジャール人はのちにキリスト教化してハンガリー王国を建国

オットー1世に敗れたマジャール人は西ヨーロッパへの侵入をやめ、10世紀末にはイシュトヴァーン1世のもとでキリスト教国家ハンガリー王国を建国した(1000年)。かつての侵略者が隣国として共存するようになり、その転換点はレヒフェルトの戦いにあった。

4「大帝」と呼ばれた皇帝は少ない

ドイツ語圏の歴史でオットー1世はカール大帝(Karl der Große)にならって「オットー大帝(Otto der Große)」と称される数少ない君主の一人。後世のドイツ・ナショナリズムの形成においても「ドイツ統一の先駆者」として高く評価され、19世紀の歴史叙述でとりわけ称揚された。

5帝国は1806年まで続いた

962年に始まった神聖ローマ帝国は1806年にナポレオンの圧力でフランツ2世が帝位を返上するまで実に840年以上存続した。途中でオーストリアのハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになり(15世紀以降)、名称と実態は時代ごとに大きく変化し続けた。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は962年。語呂は「苦労に(962)報い神聖ローマ」。
戴冠したのはオットー1世(東フランク王)、冠を授けたのはローマ教皇ヨハネス12世。場所はローマのサン・ピエトロ大聖堂。
「神聖ローマ帝国」という名称は12〜13世紀に定着したもので、962年当時からこう呼ばれていたわけではない点に注意。
オットー1世が採用した「帝国教会政策」(皇帝が司教を任命)は、後の叙任権闘争の火種となった(セットで覚える)。
955年のレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退したことが戴冠の直接的な背景であり、関連年号として押さえておく。
語呂クイズ
「苦労に(962)報い神聖ローマ」= オットー1世が戴冠し神聖ローマ帝国が成立するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 神聖ローマ帝国はどの国が中心でしたか?
A. 東フランク(現在のドイツ)が中心でした。以後、ドイツ王が神聖ローマ皇帝を兼ねる慣行が生まれ、帝国はドイツ・オーストリア・北イタリア・チェコなどを緩やかにまとめる体制へ発展しました。
Q. なぜ「神聖」ローマ帝国と呼ばれるのですか?
A. キリスト教的権威(教皇の承認)を持つ帝国であることを強調するためです。「神聖(sacrum)」という言葉が公式名称に加わったのは12世紀ごろで、帝国が世俗的な権力だけでなく宗教的な正統性も主張していたことを示しています。
Q. 神聖ローマ帝国は本当のローマ帝国の後継者ですか?
A. 政治的には後継を自称していましたが、歴史学的には別の国家です。西ローマ帝国は476年に滅亡しており、神聖ローマ帝国はその500年近く後に成立した別の政体です。ただし中世ヨーロッパでは「ローマ帝国の継承」という概念が重要な正統性の根拠とされていました。
Q. 帝国教会政策とはどういうものですか?
A. 皇帝が国内の司教や修道院長を自ら任命し、土地・財政・軍事を担わせる統治方針です。聖職者は結婚・世襲ができないため、世俗の諸侯より皇帝に忠実だとされました。しかしこれは「聖職者の任命は教皇の権限」とするローマ教皇と対立し、後の叙任権闘争に発展しました。
Q. 神聖ローマ帝国はいつ滅亡しましたか?
A. 1806年です。ナポレオンがライン同盟を結成してドイツ諸侯を支配下に置き、最後の皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)が帝位を返上しました。962年から数えて840年以上続いた帝国は、こうして幕を閉じました。
まとめ

神聖ローマ帝国の成立は、西ヨーロッパが外敵の侵攻という危機を乗り越えた末に、ローマ皇帝の権威を復活させた歴史的な転換点です。オットー1世は955年にマジャール人を撃退した英雄として教皇の信頼を勝ち取り、962年に帝冠を受けました。以後ドイツ王が皇帝を兼ねる慣行が生まれ、帝国教会政策による統治が始まりましたが、それはやがて叙任権闘争という新たな権力闘争の火種ともなりました。「苦労に(962)報い神聖ローマ」の語呂とともに、962年・オットー1世・帝国教会政策というセットを押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
「神聖ローマ帝国」の名称は12〜13世紀に定着したもので、962年当時の呼称ではない旨を本文・exam_pointsの両方で注記した。
帝国教会政策と叙任権闘争の関係は高校世界史で頻出のセット知識であり、複数箇所で言及した。
ヴォルテールの名言は正確な出典箇所が諸説あるため、trivia内で「とされる」「著作中の正確な引用箇所については諸説ある」と表現を留保した。
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