高校/政治
395
ローマ帝国が東西に分裂する
テオドシウス帝
語呂
覚え方
錯誤(395)でローマ東西分裂
さくご(395)ローマとうざいぶんれつ
395年1月、ローマ皇帝テオドシウス1世が没すると、帝国は長男アルカディウスと次男ホノリウスの2子に分割相続されました。東半分(東ローマ帝国)の都はコンスタンティノープル、西半分(西ローマ帝国)の都は当初ミラノ、のちにラヴェンナに置かれました。それまでも帝国は統治上の便宜から東西で分担されることがありましたが、395年の分割はその後に再統合されることがなく、歴史上「東西分裂」の画期とされています。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は1453年まで約1000年存続し、西ローマ帝国は476年にオドアケルによって滅ぼされました。
この記事のポイント
- 395年、テオドシウス1世の死後、帝国が長男アルカディウス(東)と次男ホノリウス(西)に分割相続された
- 東ローマ帝国の都はコンスタンティノープル、西ローマの都は当初ミラノ、後にラヴェンナ
- 以後、東西は再統合されることなく、歴史的な「東西分裂」の画期となった
- 西ローマ帝国は476年に滅亡、東ローマ(ビザンツ)帝国は1453年まで約1000年存続
- テオドシウス1世はキリスト教を国教化(392年)した皇帝でもあり、分裂後の東西それぞれにその影響が及んだ
ここが面白い「ローマ帝国が395年に東西に分裂した」と習うが、実はそれ以前から何度も東西で分けて統治されていた。395年は「最後の分割」であり、「二度と合わなかった分割」だった。
395年の東西分裂は突然起きたわけではありません。ローマ帝国はそれ以前から「分割統治」を繰り返しており、395年はその「最後の・永続的な」分割として位置づけられます。
広大な帝国と統治の限界
ローマ帝国は最盛期に地中海世界のほぼ全域を支配しましたが、広大すぎる領土はひとりの皇帝が統治するには限界がありました。3世紀には「軍人皇帝時代」と呼ばれる政治的混乱期が続き、各地の将軍が皇帝を称する事態も相次ぎました。
ディオクレティアヌスの四分統治(テトラルキア)
284年に即位したディオクレティアヌス帝は、帝国を4人の皇帝(正帝2人・副帝2人)が分担する「四分統治(テトラルキア)」を導入しました。この制度は帝国を東西に分けて効率よく統治しようとする試みで、後の東西分裂の先駆けとなりました。
テオドシウス1世とキリスト教国教化
379年に即位したテオドシウス1世は、一時的に分断されていた帝国を再統一し、392年にはキリスト教を唯一の国家宗教として公認しました(国教化)。この決定は帝国の宗教的・文化的統一性に大きな影響を与えましたが、統治の実態としては東西で別々の廷臣・軍閥が実権を握っており、帝国の一体性は脆弱なものでした。
ゲルマン人の圧力
4世紀後半、フン族の西進に押されたゲルマン人(特に西ゴート族)がドナウ川を越えてローマ領内に流入しました。375年に始まるこの「ゲルマン人の大移動」は西ローマ側を特に苦しめ、帝国の防衛力を大きく消耗させました。テオドシウス1世は西ゴート族と和解してローマ軍に組み込む政策を取りましたが、それでも帝国西部への圧力は続きました。
帝国の分割相続
≒ 巨大グループ企業を兄弟で東西に分けて引き継ぐ395年1月17日にテオドシウス1世が死去。長男アルカディウス(18歳)が東半分、次男ホノリウス(10歳)が西半分を相続した。両者はともに年少で、実権は側近・廷臣に握られた。
東ローマ帝国の成立
≒ 先進的なビジネス拠点を持つ東側が長く繁栄するコンスタンティノープルを都とする東ローマ帝国は、豊かな農業・交易資源を持つギリシア語圏を中心に安定した統治を維持し、のちにビザンツ帝国として1453年まで存続した。
西ローマ帝国の衰退
≒ 財政・防衛が手薄な西側拠点が外圧に耐えられなくなる西ローマ帝国はゲルマン人の侵入が続き、都もミラノからラヴェンナへ移した。皇帝は名目上の存在となり、476年に最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスがオドアケルに退位させられて滅亡した。
284四分統治ディオクレティアヌス帝が即位し、帝国を4人で分担統治する「テトラルキア」を導入。東西分割の先例となった。
375大移動フン族の圧力で西ゴート族がドナウ川を越えて流入。ゲルマン人の大移動が本格化し、西ローマを圧迫し始める。
379即位テオドシウス1世が東ローマ皇帝として即位。のちに帝国全土を統一した最後の皇帝となる。
392国教化テオドシウス1世がキリスト教を帝国唯一の国家宗教として公認(国教化)。異教の祭儀を禁止した。
394再統一テオドシウス1世がフリギドゥスの戦いで西の僭称帝エウゲニウスを破り、帝国を再統一。この瞬間が「最後の統一」となった。
395東西分裂1月17日、テオドシウス1世が没。帝国は長男アルカディウス(東)と次男ホノリウス(西)に分割相続され、以後再統合されることはなかった。
476西ローマ滅亡ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが西ローマ最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、西ローマ帝国が滅亡。
1453東ローマ滅亡オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落。東ローマ(ビザンツ)帝国が約1000年の歴史に幕を閉じた。
△東ローマ帝国はギリシア語・ギリシア正教会を基盤に発展し、ビザンツ文化を形成。1453年までの約1000年間、中世ヨーロッパの東方においてローマの継承者として機能した。
△西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐えられず、476年に滅亡。これによりローマの法・行政システムが西欧から失われ、中世の「暗黒時代」と呼ばれる政治的分裂の時代が始まった。
◎東西分裂後も、ローマ法・キリスト教・ラテン語の遺産はヨーロッパ各地に受け継がれ、中世以降の西欧文明・東欧文明それぞれの基盤を形成した。
テオドシウス1世(テオドシウス帝)
ローマ皇帝(在位379〜395年)帝国を再統一し、キリスト教を国教化した最後の「全ローマ皇帝」。395年の死後に帝国が永続的に東西分裂した。
アルカディウス
東ローマ初代皇帝テオドシウス1世の長男。395年から408年まで東ローマを統治したが、実権は廷臣・宦官が握っていた。
ホノリウス
西ローマ皇帝テオドシウス1世の次男。治世中に西ゴート族によるローマ略奪(410年)を経験するなど西ローマ衰退期の皇帝。
スティリコ
西ローマの実力者・軍司令官ヴァンダル人の血を引く将軍で、ホノリウスの後見役として西ローマを実質的に支えた。408年に処刑された。
ディオクレティアヌス
ローマ皇帝(在位284〜305年)四分統治(テトラルキア)を導入し、東西分割統治の先例を作った皇帝。東西分裂の遠因となった。
- 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)
- 395年の分裂後に東半分として成立した帝国。都はコンスタンティノープル(現イスタンブール)。ギリシア語・ギリシア正教会を基盤とし、1453年まで存続した。
- 西ローマ帝国
- 395年の分裂後に西半分として成立した帝国。都はミラノ、のちラヴェンナ。ゲルマン人の侵入が続き、476年に滅亡した。
- テトラルキア(四分統治)
- ディオクレティアヌス帝が導入した、帝国を4人の皇帝(正帝2・副帝2)で分担統治する制度。東西分割の先例。
- ゲルマン人の大移動
- 4世紀後半、フン族に押されたゲルマン諸族がローマ領内へ流入した現象。西ローマ帝国の衰退を加速させた。
- コンスタンティノープル
- 現在のトルコ・イスタンブール。コンスタンティヌス1世が330年に建設した東ローマ帝国の都。1453年にオスマン帝国に陥落するまで東西交流の要衝だった。
- キリスト教国教化(392年)
- テオドシウス1世がキリスト教を帝国の唯一の国家宗教として公認した措置。異教の祭儀を禁止し、ローマ帝国の宗教的性格を一変させた。
1「東西分裂」は当時の人にとって「普通の分割相続」だった
395年の分裂をリアルタイムで見ていたローマ人にとって、これは過去に何度もあった「帝国の分担統治」のひとつに過ぎなかった。「今度こそ最後の分割だ」と認識した人はほとんどいなかった。「東西分裂」という歴史的評価は、後世の歴史家がその後の展開を踏まえて下したものである。
2西ゴート族がローマを略奪したのは分裂から15年後
410年、西ゴート族の王アラリックが西ローマの都ローマ市を略奪した(ローマ劫略)。「不敗の都」ローマが異民族に蹂躙されたことは当時の人々に大きな衝撃を与え、キリスト教神学者アウグスティヌスが『神の国』を執筆する契機ともなった。
3東ローマが生き残れた理由は「立地と経済力」
東ローマがビザンツ帝国として約1000年存続できた大きな理由は、コンスタンティノープルの堅固な城壁と、エジプト・シリア・アナトリアなどの豊かな農業・交易資源を持っていたためである。西ローマと比べて税収・人口ともに圧倒的に多く、軍事力を維持しやすかった。
4テオドシウス帝は「最後の統一ローマ皇帝」と呼ばれる
394年のフリギドゥスの戦いでテオドシウス1世は帝国を一時的に再統一したが、翌395年に没した。そのため、帝国の全土を統治した最後の皇帝として「最後の統一ローマ皇帝」と呼ばれる。死の直前まで東西を行き来して統治していた。
5「476年のローマ滅亡」は西ローマのみ。東は1000年続いた
教科書では「476年にローマ帝国が滅亡した」と習うことがあるが、正確には「西ローマ帝国が滅亡した」年である。東ローマ(ビザンツ)帝国は1453年まで存続し、最後の皇帝コンスタンティノス11世は都の防衛戦で戦死した。

ここが出る博士のワンポイント
分裂年は395年。語呂は「錯誤(395)でローマ東西分裂」。
テオドシウス1世の死後、長男アルカディウス(東)・次男ホノリウス(西)に分割相続された。
テオドシウス1世は392年にキリスト教を国教化した皇帝でもある点と合わせて覚える。
西ローマ帝国の滅亡は476年(オドアケルによる)、東ローマ(ビザンツ)帝国の滅亡は1453年(オスマン帝国による)。
東ローマの都はコンスタンティノープル(現イスタンブール)。西ローマの都はミラノ→ラヴェンナ。
分裂の背景として、ゲルマン人の大移動(375年〜)と帝国の広大さによる統治困難を押さえる。
語呂クイズ
「錯誤(395)でローマ東西分裂」= ローマ帝国が東西に分裂するは西暦何年?
- Q. ローマ帝国はなぜ東西に分裂したのですか?
- A. 帝国が広大すぎて一人で統治しきれなかったこと、ゲルマン人の侵入圧力が増したこと、そしてテオドシウス1世が死に際して帝国を2人の息子に分割相続させたことが直接の原因です。
- Q. 東ローマと西ローマはどちらが長く続きましたか?
- A. 東ローマ(ビザンツ)帝国です。395年の分裂から1453年まで約1000年存続しました。西ローマ帝国は476年に滅亡しているため、存続期間は約80年にすぎません。
- Q. テオドシウス1世はどんな皇帝ですか?
- A. 379年に即位し、394年に帝国を再統一した最後の「全ローマ皇帝」です。また392年にキリスト教を帝国の国教として公認した皇帝としても知られています。
- Q. 「ビザンツ帝国」とは何ですか?
- A. 東ローマ帝国の別称です。都のコンスタンティノープル(旧名ビザンティウム)にちなんで後世の歴史家がこう呼んでいます。当時の人々は自分たちを「ローマ人」と呼んでいました。
- Q. 476年に「ローマが滅亡した」と習いましたが、東ローマはどうなったのですか?
- A. 476年に滅亡したのは「西ローマ帝国」のみです。東ローマ(ビザンツ)帝国はその後も存続し、1453年にオスマン帝国に征服されるまで約1000年間続きました。
- Q. ゲルマン人の大移動はいつ始まりましたか?
- A. 375年ごろからです。中央アジアから西進してきたフン族に押されたゲルマン諸族(特に西ゴート族)がドナウ川を越えてローマ領内に流入しました。これが西ローマ衰退の大きな要因となりました。
395年のローマ帝国東西分裂は、テオドシウス1世の死後に帝国が2子に分割相続され、以後二度と統合されなかった歴史的画期です。東ローマ(ビザンツ)帝国はコンスタンティノープルを都に1453年まで約1000年存続した一方、西ローマ帝国はゲルマン人の圧力に耐えられず476年に滅亡しました。テオドシウス帝が392年にキリスト教を国教化した事実とあわせて、「395年に東西分裂・476年に西ローマ滅亡・1453年に東ローマ滅亡」という年代の流れを整理して押さえましょう。語呂は「錯誤(395)でローマ東西分裂」。
編集メモ(ファクト)
「東西分裂」の年として395年が定説だが、それ以前にも分割統治があったため、正確には「永続的な分裂の始まり」として位置づけた。
テオドシウス1世のキリスト教国教化については、380年のテッサロニケ勅令と392年の異教禁止令の2段階があるが、教科書的には392年(または380年)と記される。ここでは国教化の年として392年を採用した。
西ローマの都について、395年時点はミラノが事実上の首都だったが、402年にラヴェンナへ移転している。混乱を避けるため本文では「当初ミラノ、のちにラヴェンナ」と記した。